アンガージュマンの実践宣言。
はじめまして。2024年9月に株式会社ヘラルボニーに入社した玄唯真(げん・ゆうじん)と申します。法務責任者を務めています。
真面目にヘラルボニーに入社した理由を考えていたら、自分史みたいなことになるのはヘラルボニーあるあるだ。それはとても心地がよいことだと思う。入社エントリーは誰のために書くのか、その目的はいろいろあるけれど、つれづれなるままに文章を綴っていたら、気がつけば自分のために書いていた。
父の経験
「他人を信じるな。自分のことだけを考えて生きろ。」
物心ついたときから父からこのようなことを言われ続けてきた。
父はいわゆる在日韓国人の2世で私が3世にあたる。
そんな父はことあるごとに差別の体験を語ってきた。
その差別の体験というのは、大きく二つある。
一つは日本での差別である。残念だけれどもよくある話で、必然的に外国人はどのような国でもマイノリティとして差別的取扱いを受ける宿命を抱いている。私はそこまで差別的取扱いを受けた経験はなかったけれども、父が青春時代を過ごした時期は個人から、社会から、国からのひどい扱いを受けていた。父から話を聞いていたときは、そんなもんか、となんとなく流していたが、法学部入学後に触れた、必ず法学部生が学ぶ判例の教材には、それに関連する事件はいくつも掲載されており、あらためて父の受けてきた経験を思い出したことを覚えている。
もう一つは韓国での差別である。父は韓国に留学(韓国人でありながら韓国に留学という表現は奇妙に聞こえるかもしれないが、母語は日本語であり、日本で教育を受けていた以上留学という表現が正しいのだろう。)した際に現地の韓国人から敵意を向けられていたことを語っていた。在日韓国人はある意味では韓国を捨てて日本に住んでいる裏切り者と考えている人が残念ながら一定数存在する。また、旧植民地出身者である在日韓国人の子孫は特別永住者として韓国人ではあるものの兵役義務が免除されていることもあり、韓国で育った韓国人にとってどうしても仲間意識を抱けないようである。その気持ちは、まあわからないでもない。
この二つの差別体験に加えて、彼がよく私に語ってきたのは、済州島四・三事件である。ちょうど2024年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんが『別れを告げない』で題材にしていた事件だ。済州島は今でこそ韓国のハワイと評されるアジア有数のリゾート地としての地位を確立しているが、1948年4月3日、南朝鮮の単独選挙反対を掲げた青年らが蜂起したことをきっかけに、韓国軍、韓国警察によって、3万人近い島民が虐殺され、島の70%の村が焼き尽くされたという壮絶な過去を抱えている。私の父は(そして母も)済州島出身であり、韓国人ではあるものの朝鮮半島の韓国人とは異なるアイデンティティを有することを意識するべきであるとよく聞かされていた。
日本と韓国で経験した差別、四・三事件に対する歴史認識、そして何よりも、親族のほとんどは韓国語を話せるのに自らは日本で教育を受けたことで韓国語を話せなかったことから、父は常に孤独であり、そんな父が拠り所としたのは哲学であった。父は、いわゆるニューアカブームの時代を生きていたことから、父の書斎には所狭しとデリダ、ドゥルーズから浅田彰、柄谷行人、中沢新一などの書籍がずらっと並んでいた。私が中学生になって以来、記憶にある父との会話のほとんどは、自らの出自の話とデリダをはじめとするポストモダン思想であった。かくして父は、お節介ながら息子も将来同じような悩みを抱くだろうとの思いから、他人に頼らずとも生活できるように、手に職をつけろと、医者か弁護士になれ、と私に諭し続けていた。
私の経験
長々と父の話を書いてきたが、何も私が影響を受けたのは父だけではなく、母、妹、学校の先生、友人、妻から書物を通じてふれあうことができた作家の方々まで様々な人たちが存在する。それでもなお、父の影響は強く、意識的にも無意識的にも「他人を信じるな。自分のことだけを考えて生きろ。」の精神で生きてきた気がする。別に友達を作らなかったわけではないし、むしろ積極的に友達を作ってきた方だと思う。それでもなお、自分の出自を知られることはなるべく避けていたし、日本人的な振る舞いを続けてきた。その根本には、やはり父からの影響が固く根を張っている。
弁護士になれと言われ続けていたものの、高校時代にアメフトをやっていたこともあり、大学でもアメフト部に入って体育会系出身者として大手企業に就職する人生でもいいなと思っていた。
ところが父はその考えに大激怒。「アメフトをやらせるために法学部に入れたんじゃない。弁護士を目指せ!」と一喝された。あまり勉強は好きではなかったものの、渋々法律の勉強をはじめてみたら、各人の人生、生き様が普遍的なルールを形成する過程、理想と現実の狭間で格闘する学問的営為にドはまりしてしまい、父の目論見通りまんまと弁護士になる道を選ぶこととなった。法の面白さについては、朝ドラの『虎に翼』を是非見てほしい。法のすべてがあのドラマに詰まっているといっても過言ではない。
では弁護士になって何をしようか?
自らのルーツだったり、父の知り合いの活動から、外国人を中心とするマイノリティの方を手助けするいわゆる人権派弁護士を目指そうと考えた。
ところが、会社法に出会ってその考え方が一変した。
資本主義経済において最も重要な役割を担っている発明の一つが株式会社であり、株式会社の発明によって、社会の富の総量が急激に増大し、貧困や健康問題など様々な社会問題を解決していった歴史がある。資本主義は格差社会を生み出すなどの負の側面が強調されがちだけれども、実際には資本主義によって解決された課題が無数に存在する。
バングラデシュでグラミン銀行を創設したムハマド・ユヌス氏が世界に広げたマイクロファイナンスではビジネスを通じた貧困問題の解決を図っており、グラミン銀行のように社会課題をビジネスで解決しようとするソーシャルビジネスのコンセプトを知ってから、ますます資本主義を支える重要な装置である株式会社の可能性を探求したくなった。実際ゼミで執筆した卒論は「ソーシャルビジネス企業における取締役の会社に対する義務」と題するもので、経済的利益を犠牲に社会的利益を追求することが会社法上許容されるのか?という最近盛んに議論されている論点を考えていたりもしていた。そのような資本主義と株式会社の魅力に取り憑かれ、企業法務に携わることを決意し、司法試験合格後、札幌での司法修習を経た上で西村あさひ法律事務所に入所することになる。
弁護士になってから
西村あさひ法律事務所での仕事は端的にいって最高に楽しかった。最近では企業法務も専門分化しており、私は不動産証券化・流動化、再生可能エネルギーファイナンスを中心とする業務に従事していた。不動産証券化・流動化の一つの側面として、既存の法制度と経済的インセンティブを組み合わせることで、特定の不動産から生じる利益を公正に各関係者に配分される仕組みを作り上げることが求められる。この過程で、関係当事者の誰かが裏切ることが構造的に極めて困難な状況を法技術を用いて作り出す必要があり、「他人を信じる」という脆弱性を徹底的に排除する発想に感動すら覚えていた。
1年目から昼夜問わずひたすら働き続けて、2年目には複雑かつ巨大な案件も任されるようになり、弁護士人生を楽しんでいたところ、父から一通のメッセージが届く。
「末期の膵臓ガンが見つかり、余命数ヶ月です。」
以前から肝臓を悪くしていたことは知っていたけれども、末期の膵臓ガンだったとは想像もしていなかった。すぐに実家に帰って父と話した。父はなぜか清々しい顔をして、悲しそうな顔をする私に向かって大笑いしながら、「そんなに悲しむな。もう俺は満足なんだ。」と語りかけた。数ヶ月後に父が死ぬかもしれないという思いを抱えながら仕事をするのはつらかったかというと、意外とつらくなかった。というよりも仕事をしている間は父のことを忘れられたので、むしろ仕事に没頭していった。また、父も在宅の緩和ケアのしおりのようなものを見せてきて、「俺はこの痛みを押さえながらジョギングできるようなプランで行きたいんだよなぁ。」とむしろワクワクした様子も見せていたので、その時点では父の死がそこまでリアルなものだとは感じられなかった。一時入院中、病院に訪問するたびに「あまり俺に時間をつかうな。せっかくやりがいのある仕事を見つけたんだから、死にゆく人間に時間を使わず、これからことに時間をつかえ。」と何度も言われたため、仕事は休まず必死に働いていた。病室には蓮見重彦の『「ボヴァリー夫人」論』や村上春樹の『騎士団長殺し』が置いてあったことを覚えている。こんな状況になっても本が好きな父をなぜか誇らしく思えた。
案件も佳境にさしかかった深夜の電話会議中、珍しく妹から電話の着信履歴とメッセージが届く。「お父さんがおかしくなってる。大丈夫かな。」とのラインの履歴。重要な案件だったため、一瞬迷ったものの、上司に父が危篤かもしれないことを伝えて会議から抜けてすぐに実家に向かった。父は、意識がもうろうとしながらよくわからない独り言を喋っていた。お医者さんを家に呼んで見てもらったところ、どうやらせん妄を発症していることがわかった。終末期のガン患者によくある症状とのことである。翌日に父は入院をし、少し落ち着いて会話ができるようになるまで回復した。しかし、父と会話をしていると何か様子がおかしい。「最近アメフトはどうだ?受験勉強は順調か?」と尋ねてくる。もうアメフトはやっていないこと、司法試験にも受かっていて弁護士として働いてることを伝えたら、「ああ、そうか、そうだったな。」と一言話して黙ってしまう。それ以降父の口数が少なくなってしまった。自分の記憶がおかしくなっていることを自覚していたからだと思う。そんな父の姿を見て私も話しかけることができなくなってしまった。このときはじめて父の死を覚悟した。
その後しばらく入院していたものの、自宅に帰りたい意思が強かったこと、全身にガンが転移してしまい治療方法もなかったことから、実家での終末ケアに移行した。事務所から仕事はしなくていいとは言われていたけれども、仕事をしている間は父のことを考えなくてよくなるので、当時としては珍しく実家からリモートワークで仕事をしながら、家族で交代で看病をしていた。たまに自分の意思でガリガリ君だったりヨーグルトジュースを飲みたいと言ってきたときはとても嬉しく、すぐに取り出して渡していた。それでも、だんだん食欲はなくなり、会話も難しくなり、何も食べられなくなってしまった。ついにその日はやってきて、2017年9月28日の明け方に静かに息を引き取った。
ソーシャルビジネスの道へ
父の死をきっかけにいろいろ考えるようになった。まず、当然のことだが死んでしまった人にはもう二度と会えないことが想像以上につらいことを知った。中学高校時代にポストモダン思想の話をされていたけれども、当時はまったく意味がわからなかった。それが悔しくて大学で司法試験の勉強をしながら哲学史の勉強をしたり、特にデリダは『法の力』という書籍で法のことを語っており、彼の書籍はいろいろと読んでいたので、父と哲学談義を楽しもうと思っていたのに、それがかなうことは二度とない。そして、人はいつ死ぬかわからないということも理解した。正直自分の親が50代で死ぬなんてまったく想像していなかった。しかも父が死ぬ直前までそんな実感がわかないのである。セネカが『人生の短さについて』で言っていた通り、人生を浪費せずに、十分に活用しないと。そう思ったときに「はて、自分はなにをやりたいんだっけ?」とよくわからなくなった。今の仕事を続ける意義は?そもそも何で弁護士になった?将来本当は何がしたい?考えてはみたものの、すぐには答えはでなかった。
そんな中、人生を変える出会いがあった。企業法務を中心とする法律事務所でプロボノ活動を推奨する流れがでてきており、ちょうど職場でもプロボノ活動を推進する動きが出てきていた。社会課題を解決する会社という形態に昔から興味があったこともあり、プロボノ案件に手をあげたところ出会ったのが認定NPO法人Living in Peaceであった。
Living in Peaceは常勤のメンバーが存在しない、フルタイムの仕事をしている人たちがプロボノで活動しているNPOだ。最初に聞いたときに全員がプロボノ、すなわち、自分の余暇の時間を使ってNPOの活動に費やしていることに衝撃を受けた。それでいながら行っている事業はかなり高度で、日本初のマイクロファイナンスファンドを企画しているという。Living in Peaceには法務のアドバイザーとして関与していたが、そのままプロボノメンバーとして法務以外のことを含めて関与するに至った。
その中で出会うメンバーの方々は皆さん社会に何らかの課題を感じていて、自分の生活の糧を得るだけでは満足せずに、能動的に社会課題の解決に貢献したいと考えられており、こんな人たちが存在していたのかと、今までの自分の視野の狭さを呪ったりもした。Living in Peaceとの出会いをきっかけに、大学時代にグラミン銀行をきっかけにソーシャルビジネスと法について勉強していたことも思い出し、原点回帰ということで何らかの形でソーシャルビジネスに携わりたいという思いを強く抱くようになった。将来やりたいことがクリアになったことから、その実現のために実力をつけるべく留学を決意し、ニューヨーク大学ロースクールに留学することにした。
ニューヨークのホームレス
憧れのニューヨークに降り立った。
これから1年間ニューヨーク生活を満喫できると思うと胸が高鳴った。ただ、実際にニューヨークの街を歩いていると違和感を抱くようになる。新型コロナウイルスの危険性が(ワクチン接種の普及があれど)依然として強調されていたから、ニューヨークの街の人通りは少なく、通りを歩いている人の数よりもホームレスの方が多かった。また、地下鉄に乗ったら必ず物乞いの方がいて、常に声をかけられた。セントラルパーク付近に超高層タワーマンションが無数に建設されていて、セントラルパーク内では(開放的な場所であったことから街中よりも多くの人がいたことを覚えている)シャネルなどの高級ブランドに身を包んだニューヨーカーが散歩をしていたり、幸せそうな家族が新緑の美しい広い原っぱでピクニックをしている、その一方で、セントラルパーク周辺ではホームレスの方が何人も寝転がっていた。それは異様な光景であった。当時住んでいたアパートの前にもホームレスの方がいた。地下鉄に乗る前にいつも物乞いをしてくるため、当初はこのような状況を生んでいる資本主義やニューヨークの功罪に対して反発心のようなものを抱いていた。それでも、毎日同じように声をかけられるので、次第に空気のような扱いをするようになった。
なんとか1年間英語での講義をしっかりこなして、卒業式を迎えた。ニューヨーク大学の卒業式の日にアカデミックガウンを着用し、卒業式を行うヤンキーススタジアムまで行くために、アパートを出たら、またいつものホームレスの方がいた。その時には、いつものように素通り、というよりも、視界にすら入っていなかったが、そのホームレスの方からいつも通り声をかけられた。けれども、その言葉は”Congratulations”の一言。物乞いなどは一切求めず、一言”Congratulations”だけだった。差別についてはそれなりに敏感であったはずなのに、私は彼を一人の人間として認識せずに、ニューヨークに溶け込んだ風景の一つとして扱ってしまっていた。一方で、彼は私を一人の個人として尊重して、見返りも期待せずにお祝いの言葉をくれた。このような彼の態度に触れて、個人の尊厳を理解していたつもりだった私がどうしようもなく情けなく、恥ずかしくなった。いつの間にか私自身がニューヨークの異様な光景を作り出す人間の一人になっていたのである。ニューヨークでは色々なことを学んだけれども、一番大きな学びは、自分も含めて、人間は油断すれば容易に個人の尊厳を踏みにじることをするし、やはり人間を簡単に信じることはできないということだった。
ヘラルボニーとの出会い
ニューヨーク大学ロースクール卒業後、アカデミックな観点からのビジネスを通じた社会課題の解決手法を学ぶためにエディンバラ大学ビジネススクールのGlobal Strategy & Sustainabilityの修士のプログラムに進学をした。とても美しいエディンバラの街でサーキュラーエコノミーやサプライチェーンにおける人権問題などを、世界中から集まってきた学友と議論し、勉学に励んだ。
そこで、ようやくヘラルボニーと運命的な出会いを果たす。英語ばかりに触れているとどうしても日本語を忘れてしまうので、日本語を思い出すためにコテンラジオというポッドキャストを聞き始めたのだが、すっかりはまってファンになっていた。障害の歴史の回で、松田兄弟がゲストで出演をしており、ヘラルボニーの話を聞いたのが最初の出会いであった。
話を聞いたときにビジネスモデルの革新性やその思想に衝撃を受けた。ヘラルボニーのビジネスモデルは、資本主義を利用して、お金を稼ぐほど異彩作家に利益が還元され、また、売上が伸びるほど、社会における異彩作家の作品の認知の獲得につながり、ひいては障害に対するイメージを変容することができるというもので、このようなビジネスモデルが成り立つのはもはや奇跡といっても過言ではないと感じた。そう、奇跡であると私は思った。なぜなら、このビジネスは人間を信じていないと成り立たないビジネスだからである。松田兄弟は異彩作家の作品を高品質なプロダクトにすれば、きっと高い値段でもお客様が購入してくれるであろうと信じた。異彩作家や福祉施設はヘラルボニーに任せれば、作品の価値をしっかり社会に届けることができるだろうと信じた。ヘラルボニーとコラボしたクライアントの方々はヘラルボニーとコラボをすることで、異彩を世に示すことができると信じた。そして、人々が異彩作家の作品を目にすることで障害のイメージが変容すると信じた。
人間を信じるということ
ヘラルボニーの大きな構成要素の一つは人間を信じるという信念だ。ヘラルボニーの存在を知って、いてもたってもいられず連絡をしてみたら、法務顧問として携わってほしいという嬉しいお声がけをいただいた。その後しばらく法務アドバイザーとして関わってきた中で多くの社員の方とお話する機会を得られた。ヘラルボニーに深く関わっているほとんどの人は他人に強い不信感を抱いた経験をしているはずだと思う。それなのに皆、社会の理不尽さに対する憤りを感じつつも、絶望するのではなく人間の可能性を信じて前進しようとする強い信念を持っていることをまざまざと見せつけられた。社員は全員障害者の可能性を信じている、障害者の可能性を信じてくれるであろう社会を信じている、これまでの人類が乗り越えることができなかった困難な壁をぶち破れると信じている。
「他人を信じるな。自分のことだけを考えて生きろ。」
この言葉は私のこれまでの人生を導く重要な指針として存在してきた。でも今はヘラルボニーのみんなを信じているし、人間を信じたいと思っている。もし父が生きていてヘラルボニーに入社したと伝えたらどう思われるだろうか。きっと喜んでくれると思う。彼は「他人を信じるな。自分のことだけを考えて生きろ。」と言いながら、余命数ヶ月の状態で私を信じて仕事に送り出してくれていた。息子と過ごしたい気持ちを抑えながら、息子の将来のことを考えてくれていた。「他人を信じるな。自分のことだけを考えて生きろ。」の標語はもはや彼を縛っていなかった。振り返ってみるとそんなことにようやく気がついた。
今は私が人の親だ。息子が物心ついたときに
「人間を信じよう。他人の幸せを願えるようになれ。」
そんなことを胸を張って言えるように、ヘラルボニーに全力でコミットしていくことをここに宣言する。