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ミラージュサルベーション【美容師:鈴木慎介氏(仮名)の変身文庫】
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◉鈴木氏の事前アンケート内容 ※抜粋
以下らは、鈴木氏にご回答頂いたパーソナル情報です。
こういったパーソナル情報を、主人公となるキャラクターに
綿密に盛り込みながら、キャラクター設計を行い、
依頼主に相応しいメタ認知小説を、創作致します。
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◉ミラージュサルベーション 【あらすじ】
美容師として自由な日々を送っていた鈴木慎介。
しかし、常連客の失踪をきっかけに、彼の日常は一変する。
残された謎めいたSNSメッセージと、そこに絡む新興宗教の存在――
慎介はその深い闇に引き込まれていく。
謎を追う中、彼のもとに現れた公安捜査官。そして明かされる、
慎介の周囲に潜む危険な組織の実態。慎介は愛する人を守るために
奔走するが、次第に自分自身の信念や欲望が試されることに。
欲望と恐怖が絡み合う中で、慎介が最後に選び取る未来とは――。
◉ミラージュサルベーション【サウンドトラック】
ミラージュサルベーション
プロローグ
その声は冷たく、そして凛としていた。背筋が凍りつくような気配が全身を包み込む。まるで全てを予期していたかのように、優しく微笑んでいた。
「あなたは分からないでしょう、慎介さん。生き延びることが、どれほど残酷なことか――」
ゆっくりと前に出てきた。その瞳には、何も映っていないかのように冷たく、だがその奥には計り知れない憎悪が潜んでいる。その言葉が刺すように胸に響く。その過去が、心を変え、今この場に立たせている。冷笑しながら、心をじわじわと抉り続ける。すべてが崩れ落ちていく感覚に包まれ、何も言えず、ただその言葉に翻弄されていた。
「早く出ていきなさい、慎介」
その声が静かに、そして鋭く耳に響いた。
第1章 予感
朝が来る。カーテン越しに差し込む光に瞼を叩かれ、ベッドから重い体を引きずり出す。アラームは鳴っていたが、手を伸ばして止めた記憶すら曖昧だ。シャワーを浴びると、冷たい水が背中を打ち、ようやく頭が少しずつ冴えてくる。
鏡に映る顔を見つめる。変わらない自分、変わらない日常。髪を整えながら、ふとため息が漏れる。今日もいつもと同じ一日が始まる。変化のない日々、安定しているがどこか満たされない。
美容師として独立したのは数年前。生活はそれなりに安定し、時間の自由も手に入れた。店はそれなりに順調だ。常連客もいるし、技術には自信がある。経営面での不安はあまり感じない。
それでも、胸の奥には渇望がある。もっと自由が欲しい。もっと楽に、もっと多くの物を手に入れたい。今の生活では、何かが足りないと常に感じている。物欲を満たすためには、今のペースでは追いつかない。毎朝鏡に映る自分と向き合う度に、それが膨らんでいく気がしていた。
店を開ける準備をしながら、心のどこかで今日もいつもと同じ一日だと思っている。鍵を回すと、ガラス越しに通りの景色が目に飛び込む。人通りは少なく、街もまだ眠っているようだ。店内に足を踏み入れると、椅子、鏡、シャンプー台がいつもと同じ場所にある。店は完璧だ。何も変わらない。それなのに、心の中では何かが変わることを求めている。どこか満たされない、漠然とした不安が一日の始まりに幕を開ける。
シャンプーをして、カットをして、お客と軽い会話を交わす。手を動かしている間は余計なことを考えずに済む。仕事は心地よいリズムだ。
だが、ふとした瞬間に「もっと自由になれないか?」という考えが頭をよぎる。もっと大きな変化が欲しい。今の生活に満足しているかと問われれば、答えは曖昧だ。半分は満足している、しかし半分は物足りなさが残る。それが最近強くなっている気がする。
そんな中で、坂東さんのことが頭をよぎる。
坂東さんは、店に長年通ってくれている常連客で、五十代後半の洒落た人。服装にこだわりがあり、髪型も細かく指定してくる。
「しんさん、また二十歳若返らせてよ」と軽い冗談を交ながら、いつも仕事や家庭の話を楽しそうにしてくれるが、ここ最近、妙に様子が変わった気がしていた。そんなある日、彼からメッセージが届いた。
「最近、奇妙なことが起きるんだ…今度、話したい…」
そのメッセージを見たとき、気にはなったが、それほど深刻には捉えなかった。「どうせまた、何かの冗談か、仕事のちょっとしたトラブルだろう」と軽く受け流していた。坂東さんは常に明るく冗談を飛ばすタイプだったから、深刻な話だとは思わなかった。返事は「今度店に来たときに、話してくれればいいですよ」と軽く送って、そのまま次の客に集中した。
だが、それから坂東さんは店に現れなくなった。1週間、2週間が経っても連絡がない。彼のSNSも更新されなくなり、周囲からも音沙汰がない。徐々に不安が広がっていく。
坂東さんは決まった周期で店に来る常連客だ。急に姿を見せなくなることは滅多にない。次第に「何かあったのか…?」という疑念が頭をもたげるようになった。
ある日、別の常連客が来店したときに「坂東さん、最近見かけないけど、どうしたんだろうね」と聞いてきた。
その言葉にハッとした。何気ない質問だったが、その瞬間、心の中でずっとくすぶっていた不安が一気に大きくなった。曖昧に「最近連絡が取れなくて」と返したが、内心では何かが崩れ落ちるような感覚があった。坂東さんのことを軽く考えていたに、どこか後ろめたさが込み上げる。
店の空き時間に、再び坂東さんのメッセージを見返してみる。
「最近、奇妙なことが起きるんだ…今度、話したい…」という言葉がやけに胸に刺さる。
あのとき、もっと真剣に話を聞いていれば、違う展開があったのかもしれない。彼に何が起きたのか、誰もわからない。しかし、何かが起きたことは間違いない。次第に、坂東さんが何かに巻き込まれたのではないかという疑念が強まっていく。
仕事中でも、頭の片隅に坂東さんのことが浮かんでくる。軽く返してしまったメッセージの内容が、今になって重くのしかかる。メッセージには、何か助けを求めるサインが含まれていたのかもしれない。何度もそれを考えると、直感的に「彼に何かがあったんだ」と確信するようになった。
坂東さんの存在が、日常の不安を増幅させていく。自由や物欲に固執できていた安心な日常が、徐々に脆く崩れ去っていく感覚。これまでの生活は、欲望を満たすことに集中できていた。
だが今、坂東さんの失踪が、日常にひび割れを生じさせている。彼がいなくなったことが、自分にも何らかの影響を与えてくるのではないか。そんな予感や疑念が膨らみ、次第にその感覚が全てを覆い尽くそうとしていた。
翌日、店を開けてからしばらく、客が数人入ってきた。シャンプー、カット、会話のリズムはいつも通りだが、どうも気分が落ち着かない。坂東さんが失踪してから、どこか胸の奥がざわざわする。
あのメッセージを軽く流してしまったことが、今になって重くのしかかっている。気にしないようにと自分に言い聞かせるが、ふとした瞬間に坂東さんのことが頭をよぎる。
今日は平日で、それほど混雑するわけでもなく、カットの手を動かしている間、意識は自然と別のところへ向かっていた。坂東さんがいなくなったこと、そしてその背景にあるかもしれない出来事。何か妙なことが絡んでいる気がしてならない。しかし、深く考えたところで答えは出ない。仕事に戻ろうと集中し直したその時、店の扉が静かに開いた。
振り返ると、一人の男が入ってきた。目が合った瞬間、何か違和感を覚えた。年齢は三十代後半、いや、もう少し上かもしれない。短く整えられた髪と、冷静な眼差し。スーツは高級感があり、肩幅がしっかりしている。普通の客というよりは、もっと硬い仕事をしている印象を受けた。直感的に「普通じゃないな」と感じた。
男はゆっくりと店内を見渡し、無言で椅子に腰掛けた。まるで、こちらが気付くのを待っているかのようだった。予約客ではないことは明らかだが、すぐに対応するわけにもいかず、「少しお待ちください」とだけ声をかけて、今のカットに集中する。
けれども、後ろから感じる視線が重い。男はただ座っているだけなのに、その存在感が妙に圧力を感じさせた。
カットが終わり、ようやくその男の方に歩み寄った。声をかける前に、男が静かに手を伸ばし、硬質な手帳を差し出してきた。受け取ると、そこには『片山勲』と書かれていた。
肩書きは……警視庁公安部公安総務課?
公安部公安? 何の冗談だろう。美容室を訪れるような肩書きではない。頭の中が一瞬で疑念に満たされ軽いパニック気味になったが、表情には出さず、名刺から顔を上げた。
「片山と申します。少しお話したいことがありまして」
声は低く、落ち着いているが、どこか緊張感が漂っていた。公安……警察が自分に何の用だ? 急に訪れた非日常に、胸が一気に詰まったような感覚がした。とはいえ、外に出るわけにもいかず、男の言葉を待った。
「あなたの常連客の坂東光治朗さん。最近、彼の行方が分からなくなっていますね?」
坂東さんの失踪……? ここで初めて事態が本当に深刻だと理解した。坂東さんが来なくなったことは気になっていたが、まさか警察――しかも公安が関わるような問題になっているとは夢にも思わなかった。だが、冷静を装うしかない。
「ええ、最近来店されていませんが、失踪というのは……?」
片山は鋭い視線を崩さず、さらに続けた。
「彼が失踪したのは、新興宗教『均一なる光』との関わりが原因かもしれないと内定しています。現在、我々はその宗教組織について捜査を進めています。坂東さんがその組織に何らかの形で巻き込まれている可能性が高いと見ています」
新興宗教。坂東さんが? 彼の明るい性格と、冗談交じりの話し方からは、そんな危険な組織と関わっているようには思えなかった。だが、片山の冷静な説明には嘘や誇張は感じられない。
「そこで、鈴木さんに協力をお願いしたいのです。彼に関して知っていることを教えていただき、今後の調査にご協力いただけないかと」
協力? 自分が? 目の前にある現実に頭が追いつかない。坂東さんが危険な組織に関わっていたという事実と、それを知った今、何をすべきなのか。助けたいという気持ちはもちろんある。けれど、公安の捜査に関わるというのは想像が追い付かない話だ。どれだけのリスクを負うことになるのか、それが一番の問題だ。
片山の視線がこちらの迷いを見透かしたように、一瞬鋭くなった。
「この捜査は非常にデリケートです。内容は誰にも話さないでいただきたい、同棲中の彼女、林川聡子さんにも。一切の情報漏洩は許されません」
片山は聡子の存在も、当然のように知っていた。まるで、自分よりも聡子のことを知っているかのように。
「わかりました。協力しますが、どこまで自分にできるのか……」
片山は頷き、それで話は一旦終わりだと言わんばかりに席を立ち、静かに店を出て行った。扉が閉まる音がやけに重く響く。胸の中には、坂東さんを助けたいという気持ちと、捜査に関わることで得られるかもしれない「見返り」への期待が入り混じる。公安の捜査に協力するのは怖い。しかし、それによって何か大きなことが得られるかもしれないという期待が、無意識に膨らんでいく。
その後、夕方近くに聡子が店に顔を出した。エステの仕事が終わり、軽く『今晩の予定』を話して去っていった。「彼女にも話さぬように」という片山の言葉が頭をよぎった。片山の訪れで、今日一日がやけに重たく感じられた。
坂東さんを救いたいという気持ちはあるが、それ以上に何かが動き始めているという感覚が強くなってきた。何が起きるのか、まだ理解できていないが、確実に日常が揺らぎ始めているのを感じている。
第2章 均一なる光
仕事を終えた後、店を閉めるといつものバーに向かった。疲れてはいたが、それ以上に自分を少し落ち着かせたかった。坂東さんのことや片山とのやり取りが頭にこびりついていて、何かが胸の奥で引っかかっている感覚が取れない。いつものバーの重厚な扉が、更に重く厚く思えた。静かな空間に足を踏み入れた。
「いつものを、強めで」
カウンター席に座り、顔馴染みのバーテンダーに軽く声をかける。グラスに注がれた琥珀色の液体が揺れる様子を眺めながら、無意識に考えが坂東さんのことに戻っていく。あの人がこんなふうに姿を消すなんて、想像もしていなかった。なんで、どうして。そんな問いが頭の中を巡る。
そんなとき、背後から感じる視線に気づいた。振り返ると、そこにいたのは片山だった。彼がここにいることに驚いたが、その表情はいつもと変わらず冷静で無表情だ。店だけじゃなく、こんなプライベートな場面にも現れる。
「失礼します」
片山は隣に座り、相変わらず重々しい空気をまとっている。酒場の和やかな雰囲気が、彼の存在で少しヒリついた気がした。すぐに話を切り出してきた。
「鈴木さん、もう少し詳しい話をしたくて来ました。『均一なる光』についてです」
無言で頷くしかなかった。彼が何を言おうとしているのか、なんとなく分かっていたからだ。坂東さんが関わっていたという、その宗教についての続きだろう。片山は一度深呼吸をしてから、落ち着いた声で話し始めた。
「『均一なる光』は、ただの宗教団体ではありません。彼らはSNSや自己啓発イベントを駆使して、信者を徐々に洗脳していく非常に巧妙なサイバー詐欺組織です」
その言葉に、体が硬直するのを感じた。サイバー詐欺……そんなものに坂東さんが巻き込まれていたなんて想像もつかなかった。片山は続ける。
「まず彼らは、仕事や暮らしに不安を抱える人をターゲットに、カウンセリングや意識向上、自己啓発と称して、s巧みに接近してきます。一見、無害に見えるものです。彼らは信者が抱える不安や疑念を見つけ、それに対して『均一なる光』の教義を提示します。これにより信者は、少しずつその教義に傾倒していくんです」
バーの薄暗い灯りの中で、片山の声だけが響いていた。その内容が信じられないほど不気味で、重くのしかかってくる。
「彼らは次の段階で、信者に特定のAIチャットボットを通じて、二十四時間体制で心理的なサポートを提供するようにします。ボットは信者の言動や感情を分析し、彼らに寄り添うような形でカスタマイズされた助言を提供します。信者は、このボットに対して完全に依存し、他の人間関係が希薄になり、最終的には組織に完全に支配されるのです」
AI……まるでSF映画のような話だ。しかし、片山の言葉に誇張はない。慎重に話を続けている。坂東さんがそんなことに巻き込まれていたのか。彼の明るい性格や冗談交じりの振る舞いが、徐々に頭の中で歪んでいく感覚がした。彼は「奇妙なことが起きている」と言っていたが、まさにそのことだったのか。
「さらに彼らは信者の金融情報や心理的弱点を徹底的に管理します。彼らにとって信者は、心理的にも経済的にも逃げられない状況に追い込まれるのです。最終的には全財産を差し出させられます。坂東さんもその犠牲になった可能性が非常に高い」
全財産……信者を経済的に破滅させる。坂東さんがそこまで追い詰められていたことに、自分は言葉を失った。だが片山の話は終わらない。
「この組織の背後には、『加宮麗香』というリーダーがいます。カリスマ的な存在で、組織全体を支配している人物です。彼女は信者を徹底的に支配し、逃げ出そうとする者を容赦なく追い詰めます」
加宮麗香、その名前が頭の中に強く焼き付いた。彼女が坂東さんを、そして他の多くの信者たちを支配している。背筋が寒くなるような感覚に襲われた。
「彼女が坂東さんを追い詰めたと考えています。坂東さんが失踪する直前、彼はおそらく『均一なる光』から逃げようとしていた可能性が高い」
坂東さんが逃げようとしていた……。すべてのピースがゆっくりと頭の中で繋がっていくような感覚がした。坂東さんは、何とかしてそこから抜け出そうとしていたのかもしれない。しかし、それが叶わなかった――その結末を想像するだけで、胃が重くなった。
「僕は、何をすればいいんですか?」
気づけば、そう問いかけていた。坂東さんを救いたいという思いと、この異常な事態に巻き込まれている恐怖が入り混じる感情が、言葉になっていた。
「まずは、坂東さんとの会話やメッセージをもう一度見直してください。そこに、彼がどうして組織に巻き込まれていたのか、その手がかりがあるかもしれません。明日、さらに詳細な話を電話で伝えます」
片山は当たり前のようにそう言って席を立った。背中を見送りながら、何も言えずにただその場に座っていた。坂東さんを救いたい気持ちは確かにあるが、同時にこの組織の恐ろしさが胸に迫ってくる。自分が思っていた以上に、この事件に深く巻き込まれつつあるのを感じた。
休日の朝。いつもならのんびりとコーヒーを飲んで過ごす時間だが、今日は相当に気が重い。片山から電話が掛かってくることが分かっているので、どうしても落ち着かない。ソファに沈み込んで、気がつけばスマホの画面を何度も確認している。連絡を待つのは嫌なものだ。まして、片山のような冷徹な男からの電話となると、なおさらだ。
外は晴れていて、穏やかな休日らしい光景が広がっている。けれど、その景色が妙に遠く感じる。最近、何もかもが違って見えるようになった気がする。坂東さんが失踪し、片山が訪れてから、自分の日常はどこか歪み始めている。
その時スマホが鳴った。片山からの電話だ。少し息を吸い込んで、ゆっくりと受話器を取る。
「鈴木です」
「片山です。これから話すことは他言無用です、特に林川聡子さんには」
いつもの調子だ。冷静で無機質。片山はあくまで、情報を伝えてくる道具のようにしか感じられない。彼がこちらをどう思っているかは知らないが、彼の目に映る自分もまた、情報を取得するためだけの、ただの道具にしか過ぎないのだろう。
「わかりました。それで、どういう話ですか?」
「『均一なる光』について、さらに詳しい情報が入ってきました。彼らは信者同士に監視をさせているんです。日記形式で日々の行動や感情を報告させ、それを組織内のデータサイエンスチームが徹底的に分析しています」
「監視…ですか」
坂東さんも、あの厳しい監視体制の中にいたのか。まるで映画のような話だが、片山の冷静な語り口から、現実だということが伝わってくる。自分の頭の中で、坂東さんが何かを隠そうと必死になっていた光景が浮かんでくる。それが、彼を苦しめていたのか。
「信者同士が互いを監視し合い、批判するように仕向けられている。精神的なプレッシャーを強化するためです。信者たちは次第に孤立していき、他の人間関係を断ち切られて、完全に組織に依存するようになります」
片山の言葉が、鋭い針のように刺さる。坂東さんは、どれだけ追い詰められていたのだろうか。あんなに冗談を飛ばしていた坂東さんが、裏では監視され、批判され、精神的に追い詰められていたとは。胸の奥で重い塊が大きくなるのを感じた。
「さらに彼らは、信者が金銭的に追い詰められると『最後の試練』として、全財産を差し出すよう強要します。財産を差し出せば救済があると信じ込まされ、結果として全てを失うんです」
「財産…全てを?」
「そうです。多くの信者が財産を失い、最終的には精神的にも経済的にも崩壊していきます。『均一なる光』はそれを徹底的にコントロールしています」
坂東さんも、その一歩手前にいたのか。家族や仕事を守るために逃げようとしたのかもしれないが、それさえも阻止され、逃げ場を失っていた可能性がある。胸がますます重くなる。自分が何もできなかったことが、痛烈に感じられた。
そして、片山は突然、言った。
「もう一つ、重要な情報があります」
「なんですか?」片山の声色から、その内容がかなり厳しいものだと瞬時に察した。
「林川聡子が、この『均一なる光』に関与している可能性があります」
その一言が、今見えている世界を一瞬で崩壊させた。聡子が? 聡子があの組織に……そんなことがあり得るのか。今聞いたばかりの言葉を、頭の中で反芻しようとしたが、信じられなかった。
「聡子が?……それは何かの誤解じゃないですか?彼女が、そんな……」
声が震えた。無意識のうちに反論していたが、片山の次の言葉は冷徹だった。
「慎介さん、私たちはまだ確証を掴んでいません。しかし、彼女の動向を調査したところ、彼女が『均一なる光』の一部と接触していた痕跡があります。これは、決して偶然とは言えません」
その言葉は、心に深く突き刺さった。聡子が『均一なる光』に関与していた? なぜ? 彼女がそんな危険な組織に加わる理由など見当たらない。二人の生活はそこそこ安定していたはずだ。聡子は仕事でもそれなりに成功していたし、二人の関係だって悪くはなかった。少なくとも、そう思っていた。
しかし、ここ数カ月、聡子が急に距離を置き始めたことや、やけに仕事が忙しくなったという言い訳を思い返すと、何かが引っかかる。彼女が「均一なる光」と繋がっていた……それが真実だとしたら、この数カ月、何を見ていたんだ?
「確かに……最近、聡子が忙しそうにしていて、距離があった気はします。でも、それが……いや、そんなはずはない」
自分のその言葉は、どこか空虚だった。理性は否定しようとするが、片山の言葉が、心に疑念を植え付ける。聡子が、あの組織に……。信じたくない、信じるわけにはいかない。
「彼女がどのように関与しているのか、まだはっきりとはわかりません。ただし、組織に対する影響力を持っている可能性があると見ています」
「影響力……?」
「はい。林川聡子が、組織の内部で重要な役割を果たしている可能性がある。だから、特に彼女にはこの話をしないようにしてください」
自分の中で、わずかに残っていた信頼が音を立てて崩れていく。これまで感じていたわずかな違和感が、急速に現実の疑念に変わっていった。片山が何を言おうとしているのか、理解できたが、受け入れるには時間がかかる。聡子が……裏切った?
「……わかりました」
喉の奥が乾き、言葉がうまく出てこない。何が起きているのか、何が現実で何が嘘なのかが分からなくなる。ただ一つだけ確かなことは、これからの生活が今までとは全く違ったものになるということだ。
「鈴木さん、今後も捜査に協力していただけますね?」
片山の声が、現実に引き戻す。坂東さんを救うために、この捜査を続けなければならない。それは分かっている。しかし、聡子への疑念が頭を占拠し、思考は揺れ動く。
「……わかりました。協力します」
片山はそれを確認すると、「また連絡します」とだけ言い、電話を切った。
スマホを手にしたまま、しばらくその場から動けなかった。静かな部屋の中で、聡子の姿が頭をよぎる。彼女はどこまで関わっているのか? 本当に裏切られたのか? 疑念と恐怖が心を支配し始める。これまでの平穏な日常が崩れ去る音が、耳の奥で響き続けていた。
第3章 正体
美容室の休憩時間。普段なら軽くコーヒーでも飲みながら、何も考えずに過ごす時間だが、今日はそうはいかない。片山から告げられた「聡子が均一なる光に関与しているかもしれない」という言葉が、頭の中で何度も反響している。仕事に集中しようとしても、その言葉がどうしても離れない。
店の外に出て、公園まで歩くことにした。ここはいつも、気分をリセットするために訪れる場所だ。ビル風が心地よく吹き抜け、木々のざわめきが適度に耳に届く。ベンチに座り、目を閉じて深呼吸をするが、心のざわつきは消えない。
聡子が「均一なる光」に関与している? 片山ははっきりとした証拠を示してはいなかったが、彼の口調はあまりにも確信に満ちていた。聡子が最近「仕事が忙しい」と言い始めてから、少しずつ距離を感じるようになったのは事実だ。でも、それがただの仕事のせいではなく、あの宗教に関係していたとしたら……。
ここ数カ月の彼女の言動を思い返す。確かに、仕事の予定が増えたとか、急に出張が入ったとか、以前よりも彼女の生活が不規則になっていた。でも、それを疑う理由なんてなかった。彼女のことを信じていたし、忙しいのはお互い様だと思っていた。だが、片山の言葉が一度植え付けた疑念は、今や頭の中でどんどん大きくなっている。
心地よいビル風が少し冷たく感じる。聡子は何かを隠しているのだろうか。これまで二人は信頼し合っていたはずだ。それなのに、どうして今になってこんな疑念が生まれてしまうのか。答えが見つからないまま、ただ時間が過ぎていく。
店に戻り数時間の仕事を終えた後、自宅へ向かった。家に帰ると、いつものように聡子が迎えてくれる。彼女はリビングでスマホをいじっていて、自分が帰ったことに気づくと、軽く微笑んで「おかえり」と言った。その笑顔が、以前は何の疑いもなく受け入れていたはずなのに、今は妙に作り物に見える。
「どうだった、今日の仕事?」と、彼女は日常の会話を始める。こちらもそれに応じ、いつも通りの言葉を返す。だが、会話の裏にある違和感は消えない。聡子が何か隠しているのではないか、彼女のすべての動きがどこか不自然に見えてしまう。
できる限り普通に振る舞おうとするが、内心では彼女の些細な仕草や表情に敏感になっている。彼女がスマホを触っているとき、その画面に何が映っているのかが気になって仕方がない。誰と連絡を取っているのか? 均一なる光の誰かと話しているのか? そんなことまで考えてしまう。
食事の後、少し会話を交わしたが、結局は何も問い詰めることができなかった。ただ、彼女との間に微妙な距離感が生まれていることだけは確かだ。これまでの二人にはなかった違和感が、確実に存在している。聡子はそのことに気づいていないのか、それとも気づいていても敢えて無視しているのか……。
その夜、ベッドに入っても眠れなかった。天井を見つめながら、片山の言葉が頭を巡る。彼女が本当に「均一なる光」と関わっているなら、自分はどうすればいい? 彼女を問い詰めるべきなのか、それとも、まだ確証がないまま動くべきではないのか。考えれば考えるほど、疑念が深くなる。
隣で寝ている聡子が静かな寝息を立てている。その姿を見ながら、これまでの日常が一気に崩れ去るかもしれないという恐怖が押し寄せてきた。これが現実なのか、それとも自分の思い過ごしなのか。答えが出ないまま、ただ時間が過ぎていく。
この疑念が、自分の中で完全に消え去ることはないだろう。そして、二人の関係が元通りになることも……
夜が更け、仕事を終えて帰宅した。ここ最近不自然に多くなった出張で不在の、聡子のいないこの部屋に、違和感と居心地の悪さを覚えていた。一人だけの静かな空間が、妙に広く感じる。心の奥に引っかかるものがある――何かが歪み始めているような、そんな感覚だ。 ソファに座り、片山とのビデオ通話を待ちながら、頭の中で彼が語る「聡子が『均一なる光』に関与している可能性がある」という言葉がぐるぐると回っている。
これまで聡子に対して抱いていた違和感が、片山の言葉によって疑念へと変わり、じわじわと胸を締め付けている。 ビデオ通話が始まり、画面越しに映し出された片山の顔は、いつも通り冷静そのものだった。だが、彼の眼差しには、何か緊迫したものを感じた。
自分は息を詰め、口を開くことができなかった。
「鈴木さん、今日は重要な話があります。」
片山の言葉が響いた瞬間、胸の奥が強く脈打つ。重要な話――それがどんな内容か、頭の片隅ではわかっている。だが、聞きたくないという感情が、それを拒絶しようとしていた。
「何ですか?」かすれた声が、自分の口から漏れた。
「林川聡子についてです。」 片山の言葉が冷たく響く。
その名前を聞いた瞬間、身体が硬直した。聡子がこの件に関与している可能性――それが現実のものとして目の前に突きつけられようとしている。自分の心は混乱し、何が現実で何が夢なのか区別がつかなくなりそうだ。
「彼女が……『均一なる光』にどう関係しているんですか?」 言葉が喉に詰まりそうだった。答えを知りたいはずなのに、真実を知ることが恐ろしい。片山の冷静な声が続く。
「鈴木さん、彼女がこの組織の幹部であることがほぼ確定しました。しかも、そのリーダーである加宮麗香の右腕として活動しているようです。」
言葉が意味を持たずに、ただ耳の中を過ぎていくような感覚に襲われた。幹部? 聡子が? 加宮麗香の右腕? 一つ一つの言葉が頭の中で爆発するように響き渡り、自分の思考をかき乱していく。
「そんな……ありえない……」 口元が震えるのを感じた。聡子が幹部だなんて、彼女があの危険な組織の中枢にいるだなんて、信じられるはずがない。いや、信じたくないのだ。片山は続ける。
「鈴木さん、冷静に聞いてください。彼女は長年にわたって『均一なる光』の一員として、組織の中枢で活動していました。しかも、それを隠しながら、あなたと一緒に生活していました。」
自分は手で頭を抱え込んだ。どうして? 彼女は一体何を考えていたんだ? なぜ自分に隠していた? 疑問が次々と頭の中で爆発していく。信じていたものが、すべて崩れ落ちていく感覚が襲ってくる。
彼女と過ごした時間、言葉、笑顔、すべてが嘘だったのか?
「何が……どうして……聡子は……?」 質問を重ねるたびに、自分が深い霧の中を歩いているような感覚に陥った。片山は短い沈黙の後、曖昧な言葉で続けた。
「鈴木さん、我々はまだすべての情報を掴んでいるわけではありませんが、彼女とそのリーダー――加宮麗香との間には、何か特別な関係があるのかもしれない、そう推測しています」 「特別な関係……?」 その言葉が脳裏に残る。
だが、その詳細は片山も語ろうとはしなかった。まるで謎を解く手がかりを提示されたように、自分は一層混乱していた。加宮麗香と聡子に一体どんな関係があるというのだろう? ただの幹部とリーダーという関係にしては、何かが不自然だ。
だが、片山はそれ以上何も言わなかった。
「彼女がなぜこの組織に深く関わっているのか、そこについてはさらに捜査が必要です。ただ、慎重に対応しなければならないことは間違いありません。」
慎重に対応する――まるで、何か大きな危険が迫っているかのような言葉に聞こえた。聡子がこの組織とどう関わっているのか、何を目的としているのか、自分の頭の中では一向に答えが出てこなかった。ただ一つ言えるのは、彼女が自分に隠している「何か」が、確実に存在するということだ。
「鈴木さん、捜査はまだ続きます。あなたの協力が必要です。そして、彼女に対する行動を慎重にしなければなりません。」
片山の言葉が自分の胸に重くのしかかる。協力……その言葉が今は重く、苦痛にさえ感じる。これ以上、自分は何を失うのだろう? 聡子への信頼が崩壊しつつある今、坂東さんを救いたいという気持ちさえ、どこか遠くに感じる。
「わかりました……」 そう答える声が、妙に遠く感じた。
すべてが崩壊しつつある中で、自分はただ虚ろな目で画面越しの片山を見つめていた。彼は「また連絡します」とだけ言い、通話を切った。
画面が暗くなると同時に、部屋の中が一気に静寂に包まれる。しばらくその場から動けなかった。自分のすべてが崩れ落ち、心に残ったのは、深い絶望と喪失感だけだった。
これから、どうすればいいのか……何を信じればいいのか……答えはまだ見つからない。
最終章
美容室を初めて臨時休業にした。今までそんなことは一度もなかった。だが今日は、特別だ。自分の胸に重くのしかかる不安と疑念。聡子が自分に隠していた真実。彼女は『均一なる光』の幹部で、リーダーである加宮麗香の右腕として活動している。それを知ってから、すべてが変わってしまった。
車の中で片山が静かに話しかけてきた。彼の顔はいつも以上に険しく、冷静な態度の裏には何かを隠しているように見えた。片山もこの潜入がどれほど危険なものか、理解しているに違いない。
「鈴木さん、準備はいいですか?」
「……はい、なんとか……」
車内の自分の声が震えているのを感じた。冷や汗が背中を流れる。車の外には、闇に包まれた教団施設が近づいていた。彼女がこの施設にいるかどうかも、確かめる術はない。しかし、直感的に感じていた――聡子は間違いなくここにいる。彼女と対峙する覚悟が必要だ。
施設の入口は一見すると無防備に見えるが、内部は厳重な警備とセキュリティーがあることは容易に想像がついた。寒くもないのに凍てついたような外気と、音がなくなったような静寂の中、片山と二人、施設の中へと慎重に足を踏み入れた。心臓の鼓動が徐々に高鳴る。周囲の静寂が不自然に感じられ、背後で何かが動いている気配を何度も振り返り確認した。
「行きましょう。時間がありません」
片山の低い声が現実に引き戻した。無言のまま、暗く長い廊下をただただ進んだ。空気は重く絡み付き、このまま押しつぶしてきそうな圧迫感を与えてきた。慎重に足を進めていると、先に見える施設内のドアが、突然静かに開いた。
その先にいたのは――。
「お待ちしていたわ」
彼女の声は冷たく、そして凛としていた。背筋が凍りつくような気配が全身を包み込む。加宮麗香は、まるで自分たちの潜入を予期していたかのように、優しく微笑んでいた。その圧倒的な存在感に、無意識のうちに後ずさりしそうになったが、片山が一歩前に出て、彼女と向き合った。
「加宮麗香だな」
片山が静かに名前を呼ぶ。彼女はその声にまったく動じる様子もなく、淡々とした口調で言葉を続けた。
「あなたたちがここに来ることは、当然知っていたわ。妹の聡子が、すべて告げてくれたから。」
聡子が――すべてを教えた? 心臓が一瞬止まったように感じた。やはり聡子が、裏切っていたのか? その言葉が頭の中で何度も反響する。どうして? 彼女がここまでして自分
――自分たちを追い詰める理由がわからない。
その時、暗闇の中から、聡子がゆっくりと現れた。彼女の表情は、これまで見たことがないほどに無感情だった。自分が今まで知っている彼女は、そこにはいない。
「……慎介」
静かな彼女の声が、心に突き刺さる。言葉を失ってしまった。何を言えばいいのか、何を聞けばいいのか――頭の中は混乱し、息をするのも苦しい。
「聡子……どうして……」
口元が震える。問いかけた言葉は、まるで自分の耳にも届かないような小さな声だった。
「慎介、あなたには分からないわ。私と麗香さんには、分かち合う過去があるの。あの事故のこと、あなたは知らないでしょう? 私たちは、あの海難事故ですべてを失ったの。」
聡子の声には、痛みが滲んでいた。しかし、その痛みは、ただの悲しみではなかった。もっと深く、もっと黒い、絶望と憎悪が入り交じった感情が、彼女の言葉の奥底に渦巻いていた。
「海難事故……?」
その言葉を反芻したが、意味が完全に飲み込めない。聡子はその動揺を一瞥しながら、言葉を続けた。
「私たちは、あの日、ただの少女だった。ただ、親と一緒に船に乗っていただけだった。けれど、激しい嵐に巻き込まれ、船は……」
彼女の瞳が遠くを見つめる。今、その目に映っているのは、あの日の光景だ。
「……目の前で、両親が――あっという間に波に飲まれていった。無力だった。助けを呼ぶことなんてできない。ただ、激しい嵐と荒れる海の中に必死に居座って……見ているしかなかった。助かるのが自分だけだったことが、どれほど残酷だったと思う?……」
言葉を失った。聡子のその言葉の重さが、胸にのしかかる。彼女は、その絶望の中で生き延びたのだ。そして、彼女と同じ痛みを共有したのが、目の前の加宮麗香。
「あなたは分からないでしょう、慎介さん。生き延びることが、どれほど残酷なことか――」
加宮麗香がゆっくりと前に出てきた。彼女の瞳には、何も映っていないかのように冷たく、だがその奥には計り知れない憎悪が潜んでいる。
「私はね、慎介さん。両親が死んだその瞬間を、見ていた。どうにか助けようと必死に手を伸ばしても、何もできなかった。最後はただ、荒波に飲まれ、沈んでいく両親を見つめていたの。あなたに、その無力さや耐えがたい虚しさが分かる?」
言葉が出ない。麗香は続けた。
「どれだけ助けを求めても、誰も応えない。ただ波に飲み込まれ、音もなく全てが消えて終わる。それを知っているのは、聡子と私だけ。この不条理さが、私たちの魂を引き裂いたの。すべてが奪われたあの日、私たちは、ただの哀れな犠牲者になった……違う、私は違う。私は、救済する側に回ったのよ。救済という名の報復。」
麗香の言葉には、冷たい憎悪が蔦のように絡みついていた。彼女はこの世界の不条理に直面し、それを自分なりに乗り越えた結果、報復という形で世界に、社会に、立ち向かうことを 選んだのだ。そして、その憎悪が、聡子をも引きずり込んだ。
「あの日、生き延びてしまったことで、私たちは罪を背負ったの。でもね、慎介さん、その罪を償うために生きるんじゃない。世界を、運命を、すべてを壊してでも、その痛みを消し去り、自らの手で希望を紡ぐために、こうして生きてきたの」
麗香の言葉が刺すように胸に響く。彼女の過去が、彼女を変え、今この場に立たせている。そして聡子も、その報復の道に、引きずり込まれてしまった。
「慎介、私は麗香さんに救われたの……」聡子が震える声で呟く。
「麗香さんだけが、私の痛みを理解してくれた。あの絶望の中から、麗香さんが、私を引き上げてくれた。だから、私は……」
胸が痛みに締め付けられているのが分かる。両親を失い、引き裂かれたままの過去が、今も二人を縛り続けている。それがどれほどの苦しみか、自分には想像もつかない。そして、その報復の渦が、聡子を、自分から奪い去ろうとしている。
「それでも、俺たちは……」
俺は言葉を続けようとしたが、麗香の鋭い声がその言葉を遮った。
「慎介さん、彼女はもうあなたのものではない。彼女は私の下で、自分の道を見つけたの。あなたにできることは、もう何ひとつない」
「よく分かったでしょ」
麗香の声には、揺るぎない支配があった。彼女は一瞬の隙も見せず、こちらの内心を完全に見透かしていた。自分の中の信念が、彼女の冷たい言葉によって揺さぶられていく。
「慎介……ごめんなさい。私にはもう、戻る場所がないの……」
聡子の言葉が痛みとなって心を締め付ける。彼女は、完全に麗香の支配下にいる。ここから彼女を救うことができるのか? 彼女を許すことができるのか? それとも、彼女を手放すべきなのか――その答えが見つからない。
「彼女を、聡子を、解放してくれ……」
声が震えていた。麗香の表情はまったく動かない。
「解放?それはあなたが決めることじゃない。聡子自身が決めること。」
麗香は冷笑しながら、心をじわじわと抉り続ける。すべてが崩れ落ちていく感覚に包まれ、何も言えず、ただ彼女たちの言葉に翻弄されていた。聡子が僅かだがこちらを見た。その瞳に宿る迷いが、一瞬だが見えた気がした。聡子は、本当に麗香の言う通りなのか? それともまだ、こちらに戻る気持ちが残っているのか?
「慎介……」
聡子の瞳が揺れる。彼女を引き戻すことが、自分にはできるのだろうか。言葉が出てこない。ただ、聡子を取り戻したいという強い願望だけが、胸の中で膨れ上がる。
「早く出ていきなさい、慎介」
麗香の声が静かに、そして鋭く耳に響いた。この瞬間に、すべてを決めなければならない。聡子を救うのか、手放すのか。彼女の瞳は再び揺れている。
……自分は、どうすればいいのか。どうすべきなのか。
エピローグ
美容室の一日が終わりに近づく。いつものようにカットを終え、鏡越しに自分の姿を見つめた。
事件が解決してから、少しずつ日常が戻ってきた。店には常連客も戻り、いつも通りの会話が繰り返されている。しかし、心の中では以前とは何かが違っているのを感じていた。
かつては、自由を手に入れるために物欲や将来の成功に焦りが生じることがあったり、漠然とした不安に心が絡めとられたりする瞬間があったが、今は心のどこかで、穏やかさを感じる。坂東さんを救えたことで、少しだけ自分の役割が見えたような気がしている。物欲に突き動かされるだけの人生ではない。むしろ、誰かを救い、繋がりを持てたことが、こんなにも心を満たしてくれるとは思いもしなかった。
あの事件は大きな反響を呼び、『均一なる光』の真実が暴かれたニュースは、連日連夜取り上げられていた。片山からの報告を受けながら、坂東さんが無事に戻ってきたことが何よりの救いだった。坂東さんの言葉には感謝の色があったが、本当の報酬は、彼を救えたという事実と、それが自分の内面に変化をもたらしてくれたことだった。
しかし、聡子との関係は、一旦は終わった。聡子は事件の後、組織との繋がりを断ち切るために姿を消してしまった。恐らくは、加宮麗香が、そう差し向けたのだと思う。あれ以来、彼女の姿を見ることはなくなった。
それでも、彼女との関係が完全に消え去ったわけではない。週に何度か、決まった時間に非通知の無言電話が掛かってくる。その無言の数秒間が、彼女がどこかで、まだ自分を見ていることを伝えているように感じる。自分の中で、その電話は彼女との微かな繋がりであり、希望の証でもあった。
美容室の窓から外を見渡す。光が差し込み、街はいつも通り平穏だ。客との会話も笑い声もいつも通りなのに、以前よりもその一瞬一瞬に深い意味があるように感じる。美容師としての仕事もまた、ただ技術を提供するだけではない。ここに来る人々の人生に、何かしらの影響を与えているという感覚が芽生え始めていた。
事件がすべてを変えたわけではない。だが、物事の捉え方が大きく変わったのは事実だった。今では自分の中にあるものの価値を、再評価している。日々の仕事や人との繋がりが、かけがえのないものだと気づいた。
坂東さんを助けることができたのは一つの結果に過ぎない。けれど、その過程で見つけた自分自身の変化が、これからの人生を形作っていくだろう。聡子がいない今、彼女との未来がどうなるかは分からないが、無理に取り戻そうとはしない。それよりも、彼女との関係が自然に回復する日が来るかもしれないという可能性を胸に、今はただこの日常に向き合っていこうと決めている。
無言電話が掛かってくるたびに、彼女との繋がりはまだ続いていると信じている。もしかしたら、再び彼女と話す日が来るかもしれない。その時が来るまで、この場所で、できることを続けていく。過去の出来事は心に無数の傷を残したが、その傷は、これからの人生を形創る力になる。
そう確信し、次に進む決意が固まった瞬間だった。