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魂という仮定
物心が付いた時、つまり社会的存在としての人間になり始めた時、既に人は自分自身から疎外されている。
人は生きていく中で、失ってしまった自分と再び出合うことになる。
生きることは、「いい」と「悪い」の判断の連続である。
しかし、自分にとっての純粋な「いい」「悪い」の判断をしない、できないのが社会性を得た人間というものだ。
純粋な「自分にとって」は、どこかに置き去りにされてしまった。
外部の規範をいったん吸収すれば、それは心と溶け合い一体化する。
純粋な自分の意志と社会的規範を区別できるほど僕たちは器用ではない。
そもそも純粋な自分の意志とは? そんなものあるのだろうか。
純粋な自分の意志は、実在するとはいい切れない一種の仮定だ。
しかし人間は仮定を必要とする。そもそも意識というものが、人間がその上に立つ巨大な仮定なのだから。宮沢賢治が「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」と書いているように。
魂という概念は、だからこそ意味を持つのだろう。
こんな想像をした。
自分という一枚の紙があるとすれば、魂はその裏面である。
紙の表面が意識。そこには社会的規範と自分の欲望の混合物としての奇怪な文字がびっしりと書き込まれている。それは僕たちが経験の中で記述した文字であり、僕たちはそこに書かれている内容が自分自身だと思い込むが、それは誤りである。
文字を集中して読んでいるとしばしば紙という存在を忘れてしまうが、この忘れられがちなものが身体だ。
魂は、裏面である。ここにも文字が書かれている。しかしその文字は永遠に隠されていて、直接読むことはできない。
意識、身体、魂について、僕の抱くイメージはそういうものだ。
もしこの紙がめくり返されたとしたら…。その可能性について想像することが、魂について考えることだと思う。
ロックは生まれた時の人間は「タブラ・ラサ(白紙)」であるといったが、僕が思うに、実際は既に、裏面に文字が書き込まれていて、それは絶対的なものだ。
だから社会的人間として、表の文字を充実させることがいいとは限らない。必死に多く書いても、それが魂に反していたら、いずれバランスを崩し、自己崩壊に至る。
人は生きていく中で、魂と向き合うことになる。
いくつかの失敗と学びの経験から僕はこのように考えるようになり、魂の存在を仮定するようになった。
哲学は魂への配慮である、という言葉があるが、この言葉には不思議な説得力を感じる。