谷崎潤一郎「文章読本」と情報化社会
「文章読本」は、小説家・谷崎潤一郎による文章講義だ。
もちろん、実際に文章を書くのに役に立つ知識がたくさん書かれている。しかしそれに留まらない。
これを読んだ後、景色ががらりと変わった。
情報化社会の中で見えなくなっているものに気付かされた。
情報化の問題とはまさに、言葉の問題なのだ。
そんな「文章読本」の魅力について語りたい。
●「分らせる」ように書く
谷崎は、「文章に実用的と芸術的との区別はない」といい切る。ここでいう実用的な文章とは、「分らせる」ことを目的とした文章のこと。小説のような芸術的な文章においても、この「分らせる」ということがとにかく大事であると強調する。これが基本の考えとなって、その後の文章論が展開される。
最初に志賀直哉の文章が引用される。いかに余計な言葉を徹底して省くことによって作られているかを示し、無駄をなくすことが、芸術的な表現になることを解説する。普通はこう書くところを志賀直哉はここまで短くする、そしてこちらの方がこんなにはっきり伝わる、と目に見える形で比較するので、とても説得力がある。
芸術的な表現とは、凝った言い回しや変わった言葉遣いのことだと考えがちだが、「分らせる」ことを突き詰めてゆけばそれは芸術的な表現に通じるということ。これは目から鱗だった。
●「分る」とはどういうことか
この「分らせる」というのが第一の文章の条件なのだが、第二の条件は「長く記憶させる」ように書くことだと谷崎はいう。これがまたとても興味深い。
「分る」ということは、実は頭脳的というよりも身体的であり、また時間のかかるものだという鋭い洞察がそこにはある。意味を説明しろといわれても上手く説明できない、しかし感覚として確かに分った気はする。そんな漠然とした分り方、あるいは、人生の中で繰り返し思い出すことによってだんだんと分ってゆく。そのような「分る」について谷崎は語っている。
情報化社会に生きる僕たちは、「分る」という行為をコンピュータの情報処理のように、瞬時に、はっきりと行われるものであるとどこかで思ってしまっているのではないか。
しかし当然、人間はコンピュータではなく、世界は情報ではない。
「分る」とは、人間の身体や生と結び付いていて、時間がかかるし、思っているよりずっと曖昧な行為であるということ。それに気付いてはっとした。
谷崎は、「長く記憶させる」文章には、字面や音調といった「感覚的要素」が大事であるという。目や耳にとっての心地よいことによってその文章は長く記憶されるから。
また、感覚的要素を上手く使うことによって、言葉を使い過ぎることなく、いいたいことを伝えることができる。
感覚的要素は、単なる美的な装飾ではなく、何より「分らせる」ために必要だということ。この一貫性が、「文章読本」の魅力だ。
谷崎は、「言葉は万能ではない」と繰り返す。この「言葉は万能ではない」は「文章読本」全体を貫く一個の思想だ。言葉をたくさん重ねても、「分らせる」ことはできず、むしろそこから遠ざかってゆく。
●情報化という問題
「文章読本」を読んで、言葉や文章へのイメージが大きく変わった。
なぜ自分はそんなに驚いたのか。それを考えてみると、情報化社会の問題に行き当たった。
社会が情報化されるということは、世界が言葉で溢れるということだ。本来は「言葉にならないもの」が先にあるはずが、情報化社会ではまず言葉がある、そんな逆転した事態が起こっている。
僕自身、空いた時間があると何となくネットを見てしまう。言葉でできたネットの世界に浸っていると、いつの間にか言葉を「そこにあるもの」として、まるで物質であるかのように見なしていることに気付く。
本来は、言葉は「言葉にならない世界」を表現するためにあったはずが、いつの間にか言葉自体が世界になってしまっている、そんな手品めいた状況があるように思える。
「文章読本」には、谷崎の危機意識が見える。「言葉は万能ではない」は、世界が情報化してゆくことへの危機意識だったのではないか。「言葉にならないもの」が文章の中から抜け落ちてゆくこと。それはちょうど、「陰翳礼賛」の日本から闇が消えてゆくことへの問題意識とも通じている。
「文章読本」は、いい文章の書き方を教えてくれるだけでなく、世界の見方について大きな気付きを与えてくれる。
情報化される前の、言葉の本来の在り方を示し、言葉の呪いを解いてくれる。