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実存の地平—サルトル「嘔吐」
「嘔吐」は正直なところ、危険な本だと思った。
実存という世界の実相について語っているが、それは極度に非人間的な光景であり、その思想は、人間的な生からの逸脱に向かっている。
この本はそれ自体、人間的に生きようとしている人々に吐き気をもたらすものだ。
一方、人間であること、人間として世界を見、その中で振る舞うことに胡散臭さを感じている一部の者が、ここに安心あるいは救いを見るのだろう。
実存という事物の在りようについて様々に言葉を尽くして語られるが、それが十全に表現されることはない。実存は認識に刃を突き立て、言葉と言葉の隙間から滲み出し、読む者の体内に侵入し、吐き気となって現れる。
そして樹の周囲を忙しく立ち廻っていたこれらの実存するものは、どこからきたのでも、どこへ行くのでもなかった。たちまちそれらのものが実存し、それから、同じくたちまち実存しなくなった。実存とは記憶のないもの、行方不明者であり、なにひとつ——思い出さえも止めておかない。到るところにあり、際限もなく、余計なもので、つねにどこにでもいる実存、それは——実存によってしか限定されない。はじまりのない存在物のこれらの豊かさに茫然自失しうんざりして、私はベンチに崩折れた。
人間と実存は相矛盾する。
哲学というものが世界の本質に迫ることだとして、その徹底によって哲学が「人間のための学」であることから逸脱してゆくとしたら、一体どれだけの人が哲学を続けられるだろう。