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街に馴染む 2024/10/13週

 ソンコは彼女の住んでいるアパートの側の山際の道を抜けて海岸沿いの旧国道を歩くのが習慣になってから、その習慣にくっつくようにいくつか別の習慣がつくられはじめた。引っ越した後に自分の感覚が街に馴染んでいくのを、ソンコはそういう自分の習慣がつくられていることと同じだと感じていた。これまでの何度かの引っ越しでも感じてきたそういう感覚を、その度にそういえばこういう感じだったと思い出す。何で毎回忘れているんだろう、と思うと少し楽しい気分になる。

 山際のアパートはその山を跨いだ裏側が入り江になっている。その入り江自体街の中に食い込むようになっているそこも入り江と呼べるような小さな湾に食い込んだ更に小さい入り江で、ソンコはそのことを考えると前に会社の人が話していたフラクタルのことも思い出す。

 アパートの前の通りは海岸からすると少し高台になっていて、アパートの裏の道から少し山にひっかかるように小学校がたっている。"街の放送”が流れるのもその山からで、普段リモートで部屋の中で仕事をしているソンコは今日も振り込め詐欺の放送が大きめの音で家の中に響くと作業を止めて、そのフレーズの切れ目で聴こえる小学校の子どもの声から校庭の中で起きていることを想像する。

「このお饅頭の名前の鏡山というのは、どこかこの近くの山なんですか?」
 ソンコがまだその街に住み始める前、旅行先でたまたま降りた駅で立ち寄った和菓子屋で、お店のおばあさんが試食のためにくれた半分の饅頭を食べて、何気なく聴いてみた。
「駅の向こう側すぐの山がそうなんです。その山の裏手がすぐ入り江になってて、海面にその山がうつるんです。それで鏡山っていうんじゃないかと私は思ってるんですけどね」
 想像だ、と思って吹き出しそうになる。
 ソンコはおばあさんと話しはじめた。いつからあるお店なのかとか、ずっとこの街に住んでいるのか、とかそういう話だった。かわいらしいおばあさんだと思って、駅から電車に乗ってホテルのある大きな街に移動するとき、またいつかこの街に来てみようと思うようになっていた。

 習慣のひとつはその和菓子屋に寄ってチズコさんと話をしに行くことで、何度か通っているうちにそういえばと思って実家から送られてきた山菜や細々した乾物なんかを渡したり、チズコさんが作った惣菜なんかをもらうようになって、仕事の合間に寄ってお茶を一緒に飲むようになった。
 チズコさんはもともとこの街の人ではなく若い頃にお嫁さんとして都会からくることになった。旦那さんはもう亡くなっていて、お店はひとりでできる分だけでやっていた。

「その後で街を出ようと思ったことはなかったんですか」
 ソンコはふと自分がそういうことを聴けるようなっていることに気づきながら、自分がひとつのところに留まらずに生活をしていることを少し考えたいと思っていることにも気がついた。
「そんなの一緒にいたときにもあったから。何度か車で出ていこうとしたんだけど、あれ旦那の車だったなと思うと笑っちゃうけどね。そういうときって頭に血がのぼってるけど、タオルケットを押入れからひっぱりだして、運転している最中に置いてきた漫画どうしようとか考えたりしてね。どこか戻れる理由探しちゃってるなと思うとバカバカしくなって」

 ソンコは店を出た後、市街の中心を流れている川に沿って歩いて、橋を渡って海岸の方に向けて折り返した。ちょうど家から近い海岸沿いの道にぶつかったとき、岬の山に向かってのぼる道の途中に背の高い男性が立っているのに気がついた。男性は海の方を向いてぼんやりしているように見えた。それを見てなんとなく、この男性はこの街の人ではないだろうと思った。
 この街の人ではない、という自分の考えに、おお、と思った。
 男性が歩き出した。背が高いわりにヨタヨタした最近ようやく歩き方を覚えましたみたいな歩き方だと思った。背が高いのと歩き方がぎこちないのは関係がないけどね、とふと自分の考えに笑っていた。

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heno
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。