回し読み 2022年7月31日週次投稿
週の半ばの記述のストレッチ、週次投稿です。
3人ほど記事を読んでもらうように頼んだ知人がいて、お願いした手前何度か投稿を抜かしたのが情けない。とりえあず再開して続けていきたいと思います。
今週は夏休みにはいった子どもとのことを書いてみて、少し習慣のことを考えてみて、他にも思いついたらという感じで。
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上の子は夏休みにはいって早々に宿題を終わらせたみたいで、その後はYoutubeを見たり、好きな工作やたまに絵をかいたりしてのんびりしていた(宿題は早く終わらせて好きなことをして過ごす、と明言していた)。割合としてYoutubeを見ていたりゲームをする時間が長かったり、何かと下の子と揉めたり、諸々タイミングが折り合わなかったりするのが奥さんの目に余った結果、二人はぎくしゃくすることが多い。
こういうのを奥さんの目に余った結果、と書いてしまうのは、自分の夏休みを振り返ると、とても上の子に何か言えるような過ごし方をしてきたようには思えず、少し気の毒に思えてしまう気持ちがあるからで、奥さんにまあまあと言うのは違うが、何も言わない自分は子どもに後ろめたい。
何度か夏休みの宿題のことを話していた中で、読書感想文の話題が出てきていた。それも子どもは早々に持っている児童ライトノベルみたいなもので書き終わっていた。少しだけチャレンジするような読書をしてもらいたいという欲が私にはあったから、奥さんと相談してエンデの『モモ』を読んでもらうことにした。
読んでもらうことにした、といっても気のすすまない読書なんてできるものではないことはよくわかっているつもりだから、私が一緒に読んで良かったところを話しあう時間をつくること、それとは別にこれは言ってみれば国語の勉強なのだから君に課せられた義務みたいなもので、わからない言葉が出てきたら辞書で調べてノートに意味を書いて、その例文もメモしておくこと、みたいな強制のテイを設定した。うまくやりようなんて思いつかない。
2章まで読んで、そのページに上の子が私の誕生日にプレゼントしてくれた栞(四葉のクローバーがラミネートで挟んである)を差し込んで、君の番だ、と手渡す。
寝室で寝る前の時間に互いに仰向けになって、同じところくらいまで読んだ子どもとモモの家はどんな風な感じか話していた。
―舞台の下に部屋があるってのはどんな感じなのかね。小学校の体育館の舞台の下はどうなっているんだっけ。狭い場所を部屋にするって何かいいよね。
―体育館のステージの下は引き出しになってて、うーん、なんだっけな。
…パイプ椅子がぎっしり入ってる。
言われてみれば体育館はそうだった。
ときどきいいかげんな重ね方をするやつがいて、仕舞うときにつかえたステージの下の引き出し。あのスッポリ感。
そのあいだに下の子は昨日も読んでいた『こすずめのぼうけん』を飛ばし飛ばしで朗読していた。
―昨日夢を見たよ。夢でキーちゃんはいなくなったママとココを見つけたんだ。
―そうなんだ。こすずめはママに見つけてもらったけど、それと逆だったんだね。
―そうだよ!キーちゃんは見つけたんだ。
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noteを含めネット上の媒体で習慣が扱われる場合、それは概ねポジティブなものとして捉えられている印象を受けます。
「習慣化」という言葉で語られることも多いようです。
社会的に有用であるとされていること、同時にその行為をするときの負荷が高くて継続するのにもハードルが高いものこそは、「習慣化」の言葉を冠されるに値する、とそんな感じの扱いに見えます。
そんな状況(私見)を踏まえつつ、以前に書いた記事で’習慣’をネット検索したときにネガティブよりな印象の例文が多いことを興味深く思いました。
もう一度その例文を引用してみます。
習慣は最近エナクティブ(enactive)のキーワードで扱われることもあるようです。感覚的な素材が意識的にではなくスタートしている心身プロセスにはもちろん社会的な有用性とは余り関わりのないものがあります。そういったものは癖という言われ方をされたり、悪習慣という冗長な形容をされます。習慣化という言葉にもわざわざ感があるでしょうか。
いずれにせよ習慣という言葉だけでは済まされないという意地を感じるように思います。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。