いつもうまい 2022年8月7日週次投稿
週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今週もしつこく習慣に関わる内容を考えてみて、そこから何か思いつきがあればそれを書いてみようと思います。
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私は今のところ習慣というものを、社会的に有用とみなされる行動様式(それは最近しばしば習慣化という言葉で表現されることが多いようです)や、そういった有用性に関わらない癖や悪習慣のようなものに限らず、ある感覚的な素材から意識を介さずに触発する行為として考えています。
この非意識的な行為、事後的に意識されることもある行為をエナクティブという言葉で扱うこともあるらしいです。行為という言葉の意識下の能動性と関わるニュアンスを区別する意味あいがあるかと思います。
意識を介さないで触発される行為、とは書いたもののその行為として想定されるものは広範で、たとえば視覚野において何かしらのオブジェクトがふと対象化されること、いまの自分の考えでは感覚的な素材から別のイメージが想起されること、この想起自体もこの行為に含まれるものと思っています。
(どちらも例としての扱いが難しくて、うまく書けていない自覚があります。物を見つけて認識することは意識的にできることですが、それがそれであると対象化されるときには意識外のプロセスが介在している場合もあるし、意識がはじめから決めてかかっている場合もあるだろうし、というまだ自分の中で未消化なところがあります。認知のプロセスと探索のプロセスの区別の話かもしれません。)
その具体的(でいいかげん)なシチュエーションとして、以前の記事で書いた文章を引用してみます。
引用した文章では習慣の発生契機のひとつとして、外的で感覚的な素材(ここでは匿名的な路地)へのありあわせの釣り合いとして、そのときたまたまイヤホンから聴こえていた馴染みのないアーティストの曲が結びつく、ということを書きました。
これは個人的に面白いポイントです。
感覚的な素材とは似ても似つかない偶然聴いていたの音の連なりが、その外的な入力に釣り合うに足るものとして扱われているようにも思えるからです。(事物の認知のレベルでこんなことが起こったら大変ですね。このケースは散歩というか、運動のプロセスに関わることなのかもしれません。)
そしてそういった結びつきは元々の視覚的な路地の印象、というよりその印象以前の素材なんてなかったかのように曲の印象を意識に前景化するようになります。
この同時、ある印象を発生させながら、元々をなかったかのようにするような働きを、以前に本で読んだことがあったように思います。
その本では反復という言葉があてがわれていたのではないでしょうか。
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最近飲んだ酒
杉錦と鷹勇はもらいもの。
この鷹勇には若干アレを感じる。若干アレなのは好物です。こういうのをしばらく常温放置したら完全なアレになるだろうかと思ったりするけど案外ならないから、こういうものなんだろうと思う。(このアレは書いていいのかいつもよくわからない。ヒネでも炭でもないアレです。)
この杉錦は奥さんは好きじゃないらしい。何飲む?と聞くと、剣菱でいい、と言われる。自分は杉錦は大体いつもうまい。
剣菱を久々に買った気がする。剣菱はいつもうまい。同じラベルだけど前に買った時より今回のやつの方が印象がいいのは、単にしばらく飲んでなかったからだけな気もする。
酒の感想は大体いつもうまいというだけで、好きじゃないとかつまらない、とかは珍しい。そういうものは自分の中で何かなんだと思う。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。