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フィクションとまぎれあるもの 2022年4月17日週次投稿

書くのを日和っているときの強制力、週次投稿でございます。
今週は最近読み始めた小説から考えたことを書いてみて、あとは思いついたことがあれば、という感じで。



最近読み始めたのは夏目漱石の小説で、いずれ読むかと思ってブックオフの100円コーナーで少しずつ買い集めていた。
友人と連絡をとっていて最近読んでいた本にジェイムズの『プラグマティズム』を伝えたところ、漱石が病気のときにジェイムズを読んでいたらしい、ということを知ったのが読み始める直接のキッカケになった。それ以前に読もうと思ったキッカケがあったはずだけど曖昧になって思い出せない。

ところで私は夏目漱石くらい大きい名前になると、どこか読んでいないことを言い訳したくなると感じているのが情けない。これから読めるなら充分だろう、今が読むタイミングだった、と言い訳を打ち消そうとする言葉で頭の中がごちゃごちゃしているのも情けない。

読んでいるのは『道草』で、いくつか持っている漱石の本の中から選んだ理由は続き物ではないらしい、とかそういう適当な理由だった。

読み始めてしばらくして内容はさておきで、ちょっと変わった感じがすると思うようになった。近代の日本の小説をよく読む方には当たり前と思うかもしれない、その気になったことをメモしてみる。

それは小説の中に登場している漱石らしき人物の語られ方としての文章と、状況を俯瞰しているらしい語り手の文章との関わり方というか、そこから感じるギャップのようなものだろうか。
いまから考えると、裏表紙に書いてある自伝的小説という言葉を変に真に受けて捉えてしまったのかもしれないと思う。語り手は漱石自身、語られているのはある程度作り話であるにせよ彼の身に起こったことだと。

そういう捉え方をしている私は、漱石はこんなに奥さんとギクシャクしていて、それをこんなに描写できるのに何で状況に介入しないんだろう、とか、自分が抱えている問題をこんな風にはっきり書ける意識が、何もその問題に関わらないということは考えづらい、と読みながら少し不思議に思っていた。

丁度そんなタイミングで、たまたま同時進行で読んでいた本に「身をやつす」という言葉が使われているのを面白く感じていた。

そうかと、「身をやつす」から『道草』のことを振り返って、当たり前のことに気づく。
あー、これ小説なんだよな、と。
奇妙に身をやつしたようにみえる小説家の像がどう書かれているか、自分の中で腑に落ちた。確かに小説の中で書かれているような場面はあったのかもしれないけど、実際の奥さんとの生活はどんな風だっただろう。

そんなこと言ったらこれを書いている自分だって、何なら本を意地になって読んでいることや他にも様々なところで、それが意識的かどうかの違いがどれだけ本質的なものかはわからないけど、身をやつしているのかもしれない。

ふと故郷の祭りでの物語風の神楽を思い出す。
いくつかの話では冒頭で神や悪鬼が人の姿をして登場し、話が進展していくうちに、それらの本来の姿をその面と衣装で表現されてあらわれる。その姿で人を救い、喰らう。移ろうもの、まぎれあるものである人間に身をやつしていたそれらの本来の姿。

小説と神楽の部分と全体の関係は身をやつすという言葉を対照に部分的に反転しているように思える。小説の語り手は、語られている人物に対して俯瞰ー全体であるように見えるにも関わらず、まぎれある小説家の現実の生活を想像させるようにも思える。

そんなことをぼんやり考えて、自分の身をもう一度あらためて振り返るとどうだろうか。
書いているうちに疲れた、ということが実感されている。

上に書いたこととは関わりなく好きな場面がいくつかあるからそのことも書きたかったんだけど、ダメだった。こんな扱い方をしたらファンの方が不快に思うんじゃないかと不安になる。

散歩していて見つけた作品。
マンションのはじっこの少し薄暗い建物が窪んでいる場所にあった。
どういう場所にこういう作品は作られやすいだろうか。

ではでは

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。