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夏至、断片 2022年6月19日週次投稿

週の半ばの記述のストレッチ、週次投稿です。
取り立てて書くようなことはありません。ここ数日で思いついたことのメモをいくつかしておこうと思います。



それにしても作業部屋が暑い。エアコンのない3階の2.6畳、20センチちょっとの横幅の縦滑り出し窓に、風が通るのを待っている感じがしてきてじりじりする。

友人にいくつかの種類を分けてもらった線香を焚いて気分転換しようとする。いわゆるオシャレなお香ではなくお線香で、わけてくれた友人は旅行でお寺に寄るたびに買っているらしい。
分けてもらったからには少しは感想を伝えたい、と思うものの身についていないものだから違いを言葉にするのが難しい。感想のかわりに、気に入って使っていること、今度は自分でお店に行って買ってみようと思っていることを伝える。

友人と何度か線香のことでやり取りがあった後に、散歩で通り過ぎる近所のお寺の賽銭箱の前にも持ち帰られる線香が置いてあるのに気づく。100円をお賽銭として納めたら持っていっていいよ、と書いてある。友人にわけてもらったお線香より何倍も太いように見えて気後れして持ち帰っていない。



たまに散歩する遊歩道で、前を歩いていた男性が灌木に咲いている花の花びらを1枚ひねりとった。ように見えた。えっ、と思って花を見ると、いくつか咲いている花と比べて花びらが少ない花がある。私が花を確認しているうちに男性はもう少し離れた先を歩いていて、3,4センチくらいの花びらをまだ手に持っているみたいだった。

歩いていることの一部みたいにスムーズに花びら1枚をひねりとる。思い返すうちに他の印象が捨象されてスムーズな動きとして記憶されたんだろうか。妙に頭に残った。



例えば、たいして本を読んでいるわけでもありませんが、読書の習慣のイメージに依存しているような自覚があります。
そういった依存からくる思うようにならないという日常的なストレスも、最近は取り立てて本は読まないでもと居直ってやり過ごしていますが、そもそも日常的なストレスをどこか必要としている心性があるなら、どうにか他所で不快になろうとする仕草も気づかないうちに出てきているかもしれません。こういった執念にはさわやかなところがある気がします。

後から振り返れば不快になろうとしていたとしか思えない成り行きの身ぶりや怠惰も、そういった仮定を挟めば見せかけ自然なものと捉えられます。
それが単なる見せかけだけのことなのか、自分で続けて考えていくことになりそうです。



夏至に近づいていくのを毎年なんとなく心細く感じています。
気にしているわりには6月22日に昨日が夏至だったのか、と気づきました。
夏至で印象に残っている文章を引用させてもらって終わろうと思います。

洗礼者ヨハネの誕生の祭日は六月の二十四日でしたか。夏至祭とは、私にとってかねてから、なかなか思い浮かべにくいところでした。冬至祭ならば、死してのち蘇るの、陽(よう)の復活の兆しの、希望の祭りと受け止められるのですが、夏至には人は何を祭るのか、何を求めるのか。水辺で篝火を焚いて歌い踊る、なるほど。燃える輪を転がす。そう言えば、円に十の字の、あるいは車輪のかたちの、太陽の象形がゲルマンの信仰にはあったようです。衰えそめる日輪への愛惜でしょうか。いや、愛惜というほどには、まだ、しおらしくもない。陽の力はいまや人の内においても、まさに闌(たけなわ)です。綱引きや模擬戦をするのだそうですね。太陽の勢をおもむろな下降から、力ずくでも引き留めたいという心なのでしょうね。しょせん徒労と知るからこそ、熱烈になる。真紅に燃えて回る車輪の死を想った、近代の詩もあります。
古井由吉, 佐伯一麦『遠くからの声』
「時」を見る

この箇所を読むと、以前は夏のにぎやかさも夏至を過ぎてこそと感じるところがありました。今はそういった感覚から何となく隔てられているような気がします。ここでの今とは何のことでしょう。エートスという言葉のことが思い起こされます。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。