過程のモンタージュ 2022年9月11日週次投稿
週の半ばの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は自分のその時々の行為によって外に付与する意味も変わってくる、という話から展開して何か書ければと思います。
*
以前、散歩中の想起を扱った文章を素材にして習慣の発生契機を考えてみましたが、今回は同じ文章から別の側面を考えてみようと思います。
散歩(行動)と認知の内部プロセスの違い、ということを念頭に以前の投稿を引用します。
ここでは散歩での路地の印象が、それと似ても似つかない偶然聴いていたの音の連なりと釣り合うに足るものとして扱われているように思えます。
認知のプロセスでこういったことは起こりうるでしょうか。
そもそも同じ外部環境=路地という前提自体が散歩と認知を比べる上では成立していないように思えます。
散歩の最中に頭にあるのはあの辺りというような大まかな場所感で、これは路面や様々な制限等々と一緒に散歩の外見の構成要素のひとつだと言えそうです。
認知の外見の構成要素は素朴なレベルでいえば個物ーオブジェクトでしょうか。(その個物は別の内的なプロセスを駆動させる源泉になる場合もあるでしょう。)
この外見の要素の構成され方という前提が散歩と認知では異なっているため、そのまま外に付与する意味も変わってくるということに思えます。
(更に散歩は認知のプロセスもサブプロセスとして駆動させていることがあるでしょう。フクザツです。このときの散歩のプロセスと認知のサブプロセスの見かけ上の階層関係は本当か、またそれは並列しうるか、ということも面白そうな話題です。)
わざわざ外見の構成要素という言葉を出したので、内的な構成要素の話にも少し触れておきます。
散歩の内的な構成要素の話は前に書いてみました。
期待と迂回というものが散歩固有の構成要素なんじゃないか、という内容です。辞書に書かれていた説明ー’軽い探索’というキーワードをフックにして散歩のことを考えてみました。
一方認知の内的な構成要素はなんでしょうか。
こちらもはじめに辞書の説明を確認してみます。
感覚器官の働きに経験などの力を加える!(結果知識を得たり判断をする)
なかなかイカつい説明です。
(①②は今回の話題には直接関わりがなさそうでした。)
うーん、もしかすると認知という言葉は今回の話題には適当ではないのかもしれません。(語用、誤用)
知覚という言葉だとどうでしょう。
こっちの方があってそうですね。見分ける。
内的な構成要素をすぐに考えるのは難しそうなので宿題にします。
さて、とりあえず散歩と知覚の外見と中身の話をしたことにします。
書いてみて改めて気になったのは散歩のプロセスにおいての知覚プロセスの働き方です。
もちろん何らかの知覚がなければ散歩はできないでしょうから、知覚は散歩にとって必要な前提でしょう。
ただ散歩の最中に知覚プロセスが積極的に働いているかといえば、実感と隔たりがある気がします。
何かのプロセスの前提となる知覚と、辞書的な意味での知覚は同じものでしょうか。何かしら段階の違いのようなものがあるのでしょうか。だとすればそれはどんなものでしょうか。
自分を満足させるような散歩には、結果的に知覚の発生(印象的な眺め、意識したことのなかった道)があるようにも思えます。
散歩と知覚、2つの心理的な過程の関わり方のことを考えながら散歩できる日が続くかもしれません。期待と迂回に段階のある知覚は、また習慣的なものはどう関わっているか。
過程のツリー、またはモンタージュ。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。