限界の表現 2022年10月16日週次投稿
週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は散歩の限界の表現についてメモをしてみようと思います。
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散歩の限界の表現に関わると思われるいくつか(まずは3つ)を書き出して、何かしら考えが進展するのを期待してみる。書き出す順序が大事になる場合もあるだろうけど、一旦は思いついた順番で。
まず道。
道は散歩以前にそこにあって、習慣的なものであろうが、そうでなかろうが散歩者を運んでいく。道がないところには散歩者はあることができない。向こうに行きたいという目当てがあっても道がなければ向かうことはできない。
道を散歩の限界の客観的な表現といえるだろうか。
路面や環境と靴も含めた服装との関係、法的な何かしら等々への散歩者の捉え方も道の体感に影響を与えているから、これを客観的とするのには抵抗を感じる。関係というものを排除した純粋で客観的な道というものはありうるか。これは自分が考えることにとって大事な分かれ道になっているように思える。これは難しいので棚上げ。
次は疲労。
散歩をしているときの感覚に直接働きかける限界の体感。
散歩者は道の知覚から次に辿っていく道を選択/非選択的に移動していく。散歩者が疲労することで、例えば道の知覚はどういまの歩行状態を終わらせるかということに考えがシフトされていく。
眺めと疲労については、散歩と疲労と崇高みたいな感じで以前の記事に書いてみた。(そういえば最近は散歩で整っていない。単純に体力が向上したし、寒くならないうちは軽装なのも関係していると思う。)
疲労は散歩の限界の主観的な表現ということになるのかな。これもまた難しい。
最後の限界の表現のことをどう書けばいいか思いつかない。
道、疲労、みたいにはっきり単語で書くことが難しい。
上で書いた2つに比べて一番曖昧な限界になっているそれは例えば、自宅から西に歩いて2キロくらいの高速道路の下をくぐって拡がる農地の眺めであったり、東に歩いて3キロくらいでたどり着く河川の行き止まりと橋までの遠さの眺めであったり、という散歩の折り返しや移動の感覚的なシャットアウトになっているような想像という書き方しか思いつかない。
とりあえず、折り返しの眺め、とでも呼んでみようか。
ともかくそれは散歩の限界の想像的な表現ともいえそうな気がする。
(主観と想像で何が違うんだよ、と言われたらしばらく黙り込んでしまいそう。)
眺めだと思っていた場所に自分の身を運んでいくのは、それまで意識していなかった道に気づくとき。それは具体的にどんなタイミングか。
何だかずいぶんぼんやりしたものを書いてしまった気がする。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。