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樹木の印象 2022年6月12日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
習慣のことを考えたいですが難しそうなので他のことを書いているうちに気分が乗ればという感じで。



朝起きて洗面台の前にたっているときに鼻詰まりと喉の違和感でどうも風邪気味と気づく。喉を鏡で見て、そんなに腫れてはなさそうと確認する。子どもの園バスの見送りをしてから、散歩はいつもより控えめにと歩きはじめた。

朝の晴れた路面の自分の歩く少し先をスズメがぴょこぴょこ飛び跳ねながら移動していて、その様子にじんとする。そういうたわい無いことで感情が揺さぶられるのを体が弱っているときのやつだとは思うものの、その様子にそのとき何を重ねて見ているのか。

ふと「チェックのシャツが風にふくらむ 後姿を」というフレーズがイヤホンごしに聴こえてくる。音楽を聴きながらの散歩とはいうものの、大体BGMになっていて逐一歌詞の内容やその場面のことは考えていない。このフレーズは自分にとってそのときに考えていたことや見えていたものを少し退けるような強さがあったんだろうと思う。

具体的な画が頭に浮かんでいるわけでもなく、実際に似たような経験があったわけでもないフレーズが何かの弾みで際立つとき、その印象は頭の中にどういうカタチの存在感をもっているだろうか。
続く「波をバックに焼きつけたかった まぶたの奥に」というフレーズは自分の中でそれほどの強さを持っていないように感じる。波をバックにしなくても、顔が見えていなくても、私のまぶたを経由しなくても、風にふくらんだチェックのシャツの後姿の印象が曲の冒頭の音の連なりと一緒にやきついている。

散歩していて日差しの強さや勢いを感じるようになったのは、落葉樹の葉っぱが厚みをつけて色濃くなって、重なりを重ねてからだったかもしれない。
それを伴って樹の幹の樹皮の印象は、離れて見ると陰になって捉えづらくなった。冬の間にインプットしていた樹皮の違いでの木の種類の判別は、その樹の枝ぶりがもっている暗さの雰囲気の中に身体を浸すことでできるようになる。

雑木林の暗さの中にはいって、木々の葉の間から陽が差し込んでいる空間の向こうの樹の幹の陰を眺めてから近くの樹皮を身近に感じれば、冬のあいだ何度も足を運んだ時間が思い出されるされることもあるかもしれない。樹が、重なり合った葉と枝、陰の幹になっていることを季節の移り変わりとして感じられるのを、あとどれくらいの期間が許すだろうか。

高速道路の下をくぐり抜ける短いトンネルの水たまりを何度か少しジャンプして通り過ぎる。



飽きてしまったり慣れて新鮮さを感じなくなること、習慣のことを考えるようになったのは、それだけがキッカケではなかったと思う。
どこから考えるのが適当か見当がつかない。

習慣という言葉は思いつく範囲でもいくつかの意味で使われていて、そのひとつを取り上げて考えようとすると、それとは別の使われ方のことは考えないでいいのかと自分で水を差すのを繰り返している気がする。

やっぱりうまくいかなかった。

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