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和山やま『カラオケ行こ!』を読んで、大阪弁について考えた。

 こんにちは、返却期限です。

 大阪弁。難しいですよね。
 簡単な方言なんてありませんが、大阪弁ほど、話せそうで話せない方言はないのでは?と思います。

 かく言う私も話せません。
 大阪生まれ、大阪育ち、大阪以外に住んだことがない、にも関わらず。

 子どもの頃から私の話す大阪弁(だと私が思っている喋り方)は周りに違和感を与えていました。
 幼いころ、お友達の家に遊びに行って、あちらのお母様から「お母さん大阪の人とちゃうでしょ」と聞かれたことがあります。母のアイデンティティは大阪人だったし、私もそう思っていたので、驚きながら「大阪の人です」と答えました。
 けれども確かに母は、育ちこそ大阪だけれども、小学校に上がるまでは祖父の郷里の山口にいました。母が2歳のころに亡くなった祖父の分まで、伯父と母を育てた祖母は長崎の人でした。ルーツが大阪にないのです。
 父は福岡の人間です。コテコテの大阪弁の小学生相手に塾講師をしていたので、かなり訛りがうつってはいましたが。

 また、幼い私の周りには、うちの家庭と同じく、ルーツを大阪に持たない人も結構居ました。小学校のときも、鹿児島訛りの子など色々な子どもがいました。なので、私が成長する中で獲得してきた話し言葉は、なんとなくチャンポンらしいのです。

 小学校の国語の音読で、先生に合わせてみんなが、大阪訛りのイントネーションになるのが苦手でした。今でも、アナウンスなどが大阪のイントネーションだと抵抗があります。文字が読めるようになるのが早かった私は、親から読み聞かせをされたことがなく、絵本などの音読といえばNHKの番組でした。だからきっと、それが正しいという感覚が抜けないのでしょう。母もチャンポン気味な環境で育ったためコテコテではないし。
 「あかい」という文字を、「あ」にイントネーションを置いてみんなが読むのに必死に抵抗した思い出。赤い赤い、なんだったかな。

 そんなわけで、私はいつも違和感を抱えて暮らしていました。知らない言葉、覚えられないイントネーション、ピンと来ない略語。今でもたくさんあります。運転免許を持っておらず行動範囲も狭いので土地勘もあまりない。地元のお祭りみたいなものにも馴染みがない。血肉になっていない。
 去年だったか今年だったか、職場の方々が何気なく「ラーメンを炊く」という表現を使っていてびっくりしました。「ラーメン、を、炊く……?」びっくりする私に向こうがびっくりしていました。
 「てとたって」とか「かやす」とか、「手伝ってあげて」であり「返す」なのですが、前後から分かるけれども私の口からは出ない。このへんは泉州弁か。
 「就職で大阪に出てきたんですよね?だって、大阪弁じゃないじゃないですか」とも言われました。

 私と大阪弁はいつも、仲良くなりたいようなそうでもないような、複雑な関係なのであります。「お前みたいなやつ、こっちから願い下げだ!」と言いながらも、「君がいないと生きていけない!」とみっともなくしがみついてしまう。泥臭くて嫌いだ恥ずかしいと言いながら、余所から馬鹿にされると許せなくて猛烈に怒る。世界のどこでも押し通す厚かましさ、共通語を拒む姿勢が憎らしく、それは自分が入れてもらえなかった恨みでもある。あんなのと一緒にされたくないと言いながら、仲間外れにされて悲しいと嘆く。私の面倒くさい性格は、大阪弁によって育まれたのです。いや、知らんけど。

 で。

 そんな私が今、「大阪弁、かいらしくてええやん(可愛らしくていいじゃないか)」モードになっているのです。

 和山やま先生のマンガ、『カラオケ行こ!』を読んだから。

 KADOKAWAの公式ページによれば、あらすじはこう。

合唱部部長の聡実はヤクザの狂児にからまれて歌のレッスンを頼まれる。
彼は、絶対に歌がうまくなりたい狂児に毎週拉致されて嫌々ながら
歌唱指導を行うが、やがてふたりの間には奇妙な友情が芽生えてきて……?

 なんちゅう話や。

 めちゃくちゃです。最初から最後までアウトです。ふだん任侠ものを読まないから余計に「ひー!」となります。
 でも、和山先生の絶妙なさじ加減で、「まあ、ファンタジーですから。フィクションですから。あまりにも現実離れしすぎてますから」と許せてしまう。許せてしまうどころか、このファンタジーのとりこになってしまう。とんでもないマンガです。
 そう、この作品の舞台が大阪。

 これを執筆する際に、沖縄出身の和山先生が苦戦しておられるのを、私、あらかじめTwitterで知っていたんですよね。 
 それもあって、「和山先生は大好きなマンガ家さんだけど、この作品を読める日が来ても、ちょっと苦笑しながら読むことになるかなあ」と大阪人内異邦人のくせに偉そうなことを思っていたわけですよ。

 ところが。

 めくれどめくれど大阪弁。大阪のノリ、大阪のニュアンス。ひとつも興醒めしないまま読み終わりました。「嘘でしょ」と思うほどの完成度です。
 例えば、書き下ろしの部分で、店員の謝罪の仕方が気に食わない、と客が怒るシーンがあるのですが、そのあまりのリアルさに笑ってしまいました。この会話、絶対、大阪のいつかどこか然るべき時空に実在した。そう思わせられるセンス。
 大阪弁監修をなさった方のご尽力もかなりあるのかもしれませんが、それにしてもこれはなんだ。奇跡か。いや、天才だ。

 会話以外のディテールにおいては、正直に言えば、「あ、これを書いているのは、大阪の人ではないな」と思うところもチラホラとあります。けれども初読のときはまったく気にならなかったです。他の人が指摘しているのを見たり、何度か読み返したりして、私はようやく気がつきました。その程度のものです。だから、ここで具体的に指摘するような野暮なことはしないでおきます。
 会話は何度読み直してもとても自然。マンガには描かれていない部分の会話も自然と想像してしまうくらい。

 「けーへん」「きーひん」「こーへん」と関西ではバリエーションが豊富な「来ない」。これを潔く「来ない」のままで採用する英断。そうなんです、「そうは言わない」コテコテよりも、共通語寄りのほうが違和感がないのです。実際、使います。

 大学で方言学の授業を受けて、大阪弁について説明されたとき、大阪市内で生まれ育った子と一緒に「なんか実感と違わん?」とモヤモヤした思い出があります。
 学術的に正しいとされていることと、肌で感じることは違う。だから、このマンガの大阪弁も、「不正確」なのかもしれませんが、「大正解」だと思うのです。言葉が、キャラクターが、生きているから。違和感がないから。そもそも大阪弁なんて、雑多でなんぼのものだから。

 四国にルーツを持つ阪神沿線の人と、中部にルーツを持つの南海沿線の人が、たまたま大阪メトロのホームの椅子で隣り合って、お互いよそ行きの「大阪弁」を使って、今日、長居の会場で開かれるイベントに誰が来るのかを、ホームに溢れる客層から推理し合ったりしている、そこでの会話。それもまた大阪の風景であり音なのです。

 だから私は明日からも、さしで線引いて、ゴミはゴン箱にほかして、怪我した子には「いける?」って心配して、せやのにまた「福岡のご出身でしたよね?」って福岡弁話せもせんのに言われても、機嫌よう生きていこう、と思えます。

 和山先生ありがとうございます。今、私、自分が選んだかたちの大阪弁を、愛を持って抱きしめています。そして、先生が疎外感のない大阪弁で描いてくださった「誰かを大切に想うまっすぐな気持ち」も、しっかり慈しもうと噛みしめています。ここ、大阪の地で。

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