『南方マンダラ』をざっくりと
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
出来るかどうか、
出来てるかどうか、
分からんなりにやってみる。
(文字数:約3300文字)
まずはマンダラ図
先日和歌山県は白浜町の、
南方熊楠記念館を訪ねて、
『南方マンダラ』なるものの、
存在を知ったんだが、
元からマンダラ好きの私にすら、
展示室の一角に、
まとめられていただけの内容では、
何が何やらさっぱりだった。
ミュージアムショップで配偶者は、
『南方マンダラ』が描かれた、
Tシャツに気を引かれて言っていた。
「カッコいいなぁコレ。
買おうかなぁ」
(*・ω・)(・∀・)
「気を引かれた御様子なので、
もしやと思いながら言うんだが、
この図■■っぽくねぇ?」
「それも込みでカッコいいかなって」
(・ω・)(・∀・)やはりか
「ってことは熊楠本人的には、
大した事言ってるつもりとか、
無い感じの図じゃない?」
「そこも含めて全体としては、
すごく重要なものかなって」
(・ω・)(・∀・)確かに
夫婦間では図像一つで、
ある程度まで通じ合えたので、
私は関連書籍を購入し、
読んでみる事にした。
読んでもなお何が何やら
『南方熊楠コレクション
南方マンダラ』
河出文庫
初版1991年(底本1971年)
2024年新装第10版
なぜならば基本的に、
高野山の真言僧、土宜法龍氏との、
ごく個人的な書簡集なんだもの。
明治時代当時の語句に常識が、
もちろん容赦無くふんだんで、
読み進めるだけで精一杯。
読み進めてもその意味は、
おぼろげにしか分からないよ。
だって当時の個人間のやりとりだから。
えーとだからここから先は、
理解できたので解説します、
などとはとても言い切れず、
こう思っとくくらいで十分じゃね?
と簡単に片付けて済ませた内容を、
あくまでも文責は偏光個人として、
提示してみます。
「南方熊楠こう言ってた」
は大ウソになるから要注意ね。
「偏光が適当にこうまとめた」
だけだからね。
そもそもマンダラの何たるか
定義自体が人によって宗派によって、
様々でよぉ分からんので、
どうあればマンダラと言えるのか、
まず真言宗の感覚で言ってみよう。
ちなみに見出しの写真は、
私が習っている御詠歌の、
御本尊とされているマンダラ。
(金剛界曼荼羅成身会)
1、大日如来が中心
2、ダイナミックに動いている
1、はともかく2、は、
真言宗の僧侶でも実感が難しいところ。
何せ平面の図に描かれているから。
本当は立体で、
それぞれの仏が動きまくりなんだよ。
そのダイナミックさ加減を体感するために、
曼荼羅を左右両側に掛け並べた空間で、
僧侶たちは儀式をするわけだけども、
庶民にそんな山の上まで登って、
儀式とかやってる暇無いよね?
毎日の生活で忙しいよね?
なので南方マンダラは、
庶民の日常生活向けに、
模式化されたものじゃないかな。
見出し画像的なマンダラも、
そりゃ有難い図なんだけども、
「この仏たちの中に、
貴方自身もいるんですよ」
とか言われたって庶民には、
ちょっと想像しにくいんだもの
ここからはちょっと意味とか分からんでいいです
配偶者にかいつまんで話してみたけど、
さっぱり分からない感じだったから。
(;?ω?) あ(・∀・;)ムリ?
だけど何となく分かってくれる人も、
この世の中にはいるかもしれないので、
ふんふんと流し見しながら、
何か引っ掛かる人は考えてみて。
日常生活を送りながら、
色々な人や物事に出会う度に、
頭の片隅で、
あくまでも片隅で、
ルービックキューブみたいにクルクル、
南方マンダラを回しとくのよ。
そうしながら暮らしていくうちに、
「あ。何かこれ前も見た」
「あ。何か似た物知ってる」とか、
南方マンダラの図にある、
線と線が交わる交点に、
印象に残る点がポツポツ現れ始めるから。
自分自身を表す交点も、
全体の中で大体その辺にあるんだろうなと、
おぼろげながら察し切れるのね。
全然分かんないし出来ない
(;ω;)\(・∀・;)
ほな無理せんで
だけど大事なのはあくまでも、
自分は交点一個分でしかないって事で、
それはちょっと解釈を間違えると、
「自分なんかちっぽけ」とか、
「周りのありとあらゆるものに、
生かされているので常に感謝を」
とかの説教臭い話になりそうなんだけど、
私自身はそうした話がちょっと苦手なので、
「どう足掻いても常に世界と連動してんだから、
一人一人がどう生きようが構わねぇ!」
くらいに雑に捉えていたい。
それで何の役に立つかと言えば、
何事も否定しなくなる。あるいは、
否定に意味が無い事に気付く。
全ての事象は連動しているからね。
何か困難や問題にぶつかった時に、
解決、はしにくくなるけれども
(解決、の正体は実は、
否定と除去だったりもするので)、
身近に複数個の可能性を見出せる。
庶民が生活していく上では、
偉い方からの権力によって、
解決、してはもらいにくい状況では、
まだしも心持ちが楽になりはしないかなぁ、
くらいの、
悟りとまでは言い切れん、
心持ち平穏でいるための道具かな。
補足資料:大日如来とエネルギー
なぜ大日如来が中心にあると言えるか。
ダイナミックに動いているその、
エネルギーはどこから発生しているのか。
大日如来という存在が、
「心の世界」と、
「物の世界」の、
二種類を作り出しているから。
大日如来に、
人間でいうところの心は存在しないので、
ここは「中心」の意味だとして、
大日如来の中心って何?
と聞かれたら、
(宇宙にある)太陽、
ととりあえず思ってもらっていい。
宇宙に存在する太陽そのものを、
地球の側から、
つまり人間の視点から見た場合に、
昼の明るさ = 心の世界
と
夜の暗さに困って明るくしたい(心)が、
火を生み出した = 物の世界
に分かれる。
「心」と「物」が出会ったところで、
「事」が生まれて動きが発生する。
「事」とは例えば、
火を起こす(事)、とか、
飲みたいと思って(心)、
買ってきた酒(物)を飲む(事)。
「事」はやがて無くなって、
燃えた薪の跡だったり、
帳簿に付けた酒代だったりの、
「名」や「印」を残す。
実は科学という学問知識は、
この「名」や「印」を取り上げて、
分類整理して議論を続けているだけで、
人間個々人にとって本当に重要なのは、
火がついて嬉しいとかあったかいとか、
酒が美味いなんかの、
「事」の方なんだよ。
(「物」が「人同士」であれば、
出会って生まれるのは「縁」にもなる。)
とは言っても「事」や「縁」は、
個々人それぞれに対して、
あまりにも大量に発生するから、
理解とか記憶とか到底できないんだけど、
一人一人がその重要さとか、
連動している感じなんかを、
しっかり意識しておかないと、
「火をつけるのにこれだけ薪いるから、
もっと薪を手に入れないと」とか、
「酒なんかにこの額の金を掛けるな」とか、
「物」ばかりを意識した話で、
世の中全てを判断しようとしちゃうからね。
そしたらそりゃ世の中は、
殺伐とするよ、
って話。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
いやホンマに。
何となくにでも読み取って頂けると幸い。
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