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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ五(3/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3500文字)


 年中ほとんど毎日の三食を、田添は学生寮の食堂で済ませている。ただ済ませるだけではなくその日の食事当番の後を付いて回って、質問攻めにもしている。
 今日の献立と調理手順と、一人分の食材に分量と、食材を入手する場所に費用などを、聞き出してはいつもの手帳に書き付けているのだが、全てを答え切れる当番など滅多にいない。皆嫌々作っていて苦情にはうんざりしているのだ。
 舌が肥えている奴にはさぞ御不満だろうよと、一年の間は先輩達から相当に嫌がられ、二年目に入ってからも同級や後輩達を怖れさせているのだが、さすがに田添も、少しずつではあるが、
「おいしかったので」とか、
「周りから聞いた評判が良かったので」とか、
 いくらかは嘘だとしても言ってやる事で、話が多少なりと円滑に進む事に気付いてきた。
 あるいは「味が分からない」と、ある程度本当のところを打ち明けても、何ら問題は無い事に。
「自分が当番の時に困るので」
 くらいで話を切り上げておけば、
「そりゃ大変だな」
 とある程度は親身になってもらえる。皆もそれはなるべくなら、不味い飯は食いたくもない。
「味がしないんだ。俺は、甘みしか感じない」
 二年目の初めあたりで打ち明けた楠原は、面食らった顔をしていたが。
「何を食べても皆、砂を噛んでいる感覚だ。特に獣肉はきつい。脂には多少の甘みがあるが、基本的には練った泥だ」
 夕闇が迫ってきて薄暗くもなってきた、下宿部屋の内に差し向かいで、黒眼が大きい分目立つ、ゆっくりした瞬きを繰り返しながら聞いていた。今後頻繁に顔を合わせ、もしかすると共に食事をする機会もあるだろうから(と言うよりも既にあって困難を感じていた)と、正確な言い方を心がけ過ぎたせいもあっただろう。
「だからと言って食わずにいれば、成育を阻害する。また甘みばかりを求めていては、健康を維持できない。食事は苦痛でしかないが、自己管理のためには重要だ」
「何があってそうなった?」
 話を聞かせてまず一つ目の反応としては珍しいものだったが、相手は楠原だ。
「って、訊いて良けりゃあなんだけども」
 お互いに、素性を聞き出してはならない、という取り決めもあるにはあるが、「素性」という言葉の定義自体が不明瞭だ、と田添は考えている。「現在の本名に戸籍上の身分」と定義した場合、その範囲には含まれないだろう。
「昔、俺の家の近所に教会があった」
 ふん、と楠原は背を起こし、何気無くみたいに目を伏せた。
「建てられた、初めのうちは男も女も、道に引きずるような長い服を着て、何かしらの歌でも歌いながら、よせばいいものを俺の家があった通りまで、練り歩きに来た。ひどい臭いがしただろう場所に。女どもはみんなして、布切れで目元や鼻を覆っていたな。
『この悲惨な世の中を救いに来た』だの、
『教会に来てもらえたらここにいる子供たちは飢えずに済む』だの、
 代表らしい男が勇ましげに声を張り上げていたが、食わせなくてはならない奴が、あまりにも多すぎたんだろう。すぐ練り歩きに来るのをやめ、俺たちが教会のそばを通っただけでも、顔をしかめて追い払うようになった。
 汁物なんかを配っている列に、どうにかして入り込めたとしても、俺たちの顔を見定めてわざわざ汁だけを、見せつけるようにほんのわずかばかり注ぐんだ。小さな湯呑みほどの椀に。椀が食えるならまだしもだが。文句を言っても俺より小さな奴らがわめき散らしても、返ってくるのは『神を敬え』だとか、『まともな生活に立ち戻れ』だとか。まともな生活なんか、俺たちは生まれてこの方見た事も無い。『この世に生まれ出た事がつまりは間違いだ』とでも言われているようにしか、俺には感じなかった。
 何かの、祭りだったのかもしれない。その日は朝からずっと、一町四方まで良い匂いが、流れ続けていた。俺はせめて、その匂いだけでも吸い込もうと、その辺の草むらに空を見ながら寝そべっていた。
 ガキがやって来た。金持ちの子供だろういかにもあたたかそうな、襟元や袖口にふわふわした毛もくっついているような、上着を着ていた。そして手に持っていた丸いパンを、俺に差し出してきた。
『オレ一人じゃ食い切れない』とか、
『母ちゃんに持って行こうと思って』とか、
 何やら言っていた気はするが、俺は、ろくに聞きもせず掴み取った。
 甘かった。とんでもなく。俺がそれまでに口に入れてきた代物とは、あまりにもかけ離れている。掴んだ手に指が、その後もしばらくザラザラして、砂糖でも振り掛けてあったんだろう。頭があらゆる方向から、内側まで刺し通されてかえって、痛みを感じるような甘さだった。
 その時に舌か頭か、両方がどこかしら壊れたものと思う。そこから俺は甘みの他、何の味も分からなくなった」
「余計な事しやがったなぁ。そのガキは」
 どこまでを、どんな具合に聞いていたのかよく分からない事をまずは言ってきたので、田添は自身でも、珍しく思いながら笑みを浮かべた。
「ああ。まったくだ」
 苦笑に近いものではあったが、笑みだという自覚はあった。
「顔とか名前とか何か、覚えてねぇの」
「いいや。俺はとにかく目の前のパンを、食らう事に必死だったからな」
 言いながら思い出せた様子は、決して気持ちの良いものでもない。
「怖がらせたようだ。食い終えた俺が近寄って行くと、ソイツの方ではすっかり青ざめて、後ずさりながら、震えているくせに懸命に勇気を奮ったみたいに、
『悪いけど、俺、犬を連れて歩く趣味はねぇんだ』
 みたいな事を言ってきた」
「生意気な」
 見てきたような言い方に、また苦笑する。
「うん。確かにそう、言ってきたな。そしてそれなりに俺は、傷付いたようだ。人並みに扱われない事など慣れ尽くしているつもりだったが、その場では、言い返せなかった」
「分かってても他人からは言われたかねぇんだよ」
「おい。心を読むな」
「いや。実感だって。こっちも」
 へらっ、と笑いながら返してきたその様子を、気に留めながら田添は、先を続けた。
「向こうでも今の俺を見て、何も思い出さないだろう。俺はそれから今の養父に引き取られ、見た目も身なりも相当に変わったはずだ」
 もはや「素性」とは言い得ないほどだろう、と田添は半ば期待も込めて信じ抜くつもりでいるのだが、楠原はへらへらと二、三回、赤茶色の髪を揺らしながら頷いた。
「今頃お前と立場が、入れ替わってたりしたら面白いけどな」
「いいや。それは無い」
「言い切れんのか? もしかしたら……」
「俺と入れ替わっていたなら、とてもこの年まで生き延びてはいまい」
 ゆっくりと長いまつ毛が目立つ瞬きをしてくる。
「菓子パンただ一つきりで幸いだった。俺の腹はそれまでに、ほとんど使われた事が無かったからな。縮こまり弱り切っていて、それ以外、またそれ以上の物を与えられても、消化する力など残ってはいなかった」
 四回、五回と無意識に、田添が瞬きを数えている間、楠原は黙り込んでいた。目線が動いているのかどこに焦点が当たっているのか、何を考えているのか分かりにくい黒眼だ。あるいは何も考えていないのかもしれないが、と思ったところでうつむいて、田添と向き合うのは髪の赤茶色に変わる。
「ソイツ、見つかると良いな」
「見つけて何になる」
「ひと言くらい礼でも、言えたら良いよな」
「無理だ。俺はとうに諦めている」
「分からないよ」
 上げて来た顔を見て田添は、息を飲んだ。
「一生のうちには、どうなるか」
 しっかりと見合わせてきた黒眼は、わずかながら潤んでいて、ほころんだ口元を見ればどうやら良い印象の、嬉しい話でも聞けたみたいに思っているらしい。それも、かなり強く。
 今の自分の話が楠原に、何を思わせたのか、どう受け止めての今のこの表情なのか、田添には皆目見当も付かなかったが。
「もしかして俺がソイツ見つけたら、代わりに礼言っといても良い?」
「構わない」
 コイツではないだろう、と田添は考えている。楠原だとしたらまず特徴的な髪の色を、自分が覚えていないわけがない。
「どうだって良い。向こうには、意味が分からない話だろう」
 教会に心当たりでもあるのかもしれないが、おそらくは思い違いだ。成育状態が良くなかったのと、そもそも戸籍などは有していなかったので、田添の実年齢は後に養子となって入った戸籍上の年齢よりも、五つほど上になる。
 楠原に限らず今同級となっている者は、皆その頃は記憶もおぼつかない、幼児だったはずだ。


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