『太平記』読書記録3分の3の中
もはや上手く行くわけがない
足利尊氏・義詮親子と慧源、京で会合するけど、
やっぱりだいぶよそよそしい。
高師直、師泰、師冬の葬儀が、
慧源が建てた寺、等持寺で執り行われた。
慧源の勧めで高師直が建てた寺、真如寺もあるよ。
※棣棠(ていとう)の花……山吹。兄弟を意味するらしい。
天狗達が京に現れて、
お互いを非難しまくったとされてるけど、
尊氏側には仁木、細川、土岐、佐々木がついて、
慧源側には上杉、畠山、石堂、桃井がついて、
二分してる上に均衡。
みんな自分の領地の方が大事なので帰る。
京スッカスカ。
そんな京に、
吉野から護良親王の若宮を大将に据えた、
赤松軍が攻め上って来ちゃったよ。
義詮から相談されても尊氏、
「運は天にあり」とか言って、
歌会に備えた和歌作ったりしてるけど。
慧源は石堂・桃井が逃がしてくれて敦賀に。
だけど長論議してぐっだぐた。
※なんか慧源に殷の逸話吹き込んで、
「今の義詮こそ紂王。仁者の貴方に倒せないはずがない」
ってそそのかしてた藤原有範って奴がいて、
信じた慧源と共に馬鹿にされてるけど、
このエピソード自体が多分敵側の見方だし話半分。
慧源終了のお知らせ
尊氏、南朝から慧源追討の宣旨を受ける。
そりゃね。南朝からしてみれば、
合体したはずなのに上洛させてもらえてないからね。
どないなっとんねん💢って話なのよね実は。
足利兄弟親子すっかり忘れてたって言うか、
そもそも利用しただけで意向とか汲んでないと思うけど。
近江で合戦、慧源は鎌倉に逃げた。
尊氏勝ったよって京に帰ったけど、
義詮から重ねて宣旨が来たって言われる。
なので京に義詮残して尊氏鎌倉に出兵。
慧源軍3千騎に対して、尊氏軍50万騎。
駿河の薩多山とか那和庄で戦いまくったけど、
多勢に無勢が過ぎる。
尊氏からの和睦を促す文を持った仁木が迎えに来て、
慧源降参。
荒れた屋敷に警固付きで押し込められて、
一ヶ月後に急死した。
黄疸らしいけど鴆毒とも噂された。
栄枯盛衰と言うにはちょっと釈然としない
持明院統(北朝)の人々、
みんなちょっとずつ降格させられたけど、
南朝に通じてた人はそのまんま。
天皇の母は院号を得て新待賢門院。
その父北畠親房は准后の位を得る。
※……后に准じた待遇で年官年爵を与えられる。
皇族五摂家の他では初めてだって。へー。
そんでその嫡男、北畠顕能(あきよし)が京を攻めて、
足利義詮を近江に追い出して、
細川頼春討たれて細川顕氏は若狭に逃げる。
年が明けて南朝では正平7年2月26日、
後村上天皇が賀名生を出立、東条、住吉、天王寺を経て
八幡に御所を構えられる。
ところで住吉では風も無いのに松の大木が折れたよ。
改元して文和元年閏2月21日、
三種の神器を受け取った後、
北朝の崇光天皇と、
光厳・光明両上皇は賀名生に移される。
比叡山座主だった光厳院の弟梶井親王も、
捕らえられて金剛山に移される。
南朝・北朝の区分は大陸の歴史を模したもので、
実態を表した呼称じゃなかった事を私はここで知る。
だけど今更めんどいしこのまま行っちゃうよ♪
実はいたんだよ新田義貞の息子達
足利尊氏・義詮と合体した風に見せていた裏で、
南朝、尊氏の追討令を出してました。
東国にいた、
新田義貞の次男義興(よしおき)三男義宗(よしむね)、
新田義貞の弟、脇屋義助の子、義治(よしはる)に。
……ややこしいっちゅーねーん💢
石堂義房・頼房親子は父新田軍、子足利軍に。
尊氏の小姓だった饗庭命鶴(みょうづる)軍は、
兜に梅の花一輪挿してるって、
元腐女子の血が騒ぐけど要らんねん戦場にそんなん。
武蔵野で合戦。
激戦の後、尊氏軍敗退。
新田義興は怪我を負って退いたものの、
脇屋義治は尊氏・仁木頼章軍と対戦。
新田義宗はひたすらに尊氏を追って行く。
「天下の為には朝敵なり。我為には親の仇なり。
只今尊氏が首を取って軍門にさらさずんば、
いつの時をか期すべき」
って武将好きにはたまらなそうな台詞だな。
なんだけど尊氏「腹切るー」って騒いでる間に、
助けられて逃げ切れちゃった。
尊氏運強いって地の文でも所々で感嘆。
ついでに鎌倉も潰しちゃえ
新田兄弟と脇屋義治、鎌倉攻め。
石堂軍と三浦軍も加わる。
三浦軍疲れてないし関東の地理知ってるから、
終始有利で足利基氏(尊氏の次男)敗走。
しばらく新田家で鎌倉治めてたんだけど、
後醍醐天皇の王子を大将にして、
宇都宮氏綱と武田信武軍が攻めて来たよ。
むっちゃくちゃ激戦の後に、
石堂家が仕える上杉軍は信濃へ、
新田義宗は越後へ、
新田義興・脇屋義治は相模へ、
それぞれ敗走。
それ聞いて近江に逃げてた足利義詮、京を攻める。
八幡合戦
足利義詮には山名軍、上杉軍が付いて、
南朝軍には和田軍と楠正行の弟、正儀軍。
あとは公家ばっかりで正直戦の役には立たなくて、
河内に逃げた楠も戻って来なかった。
正成の子、正行の弟なのにって貶されてるけど、
注釈によると和泉國で戦ってたそうです。気の毒です。
後村上天皇は河内に逃げて、
逃がした藤原隆資討死。
名和長生(ながなり)が守りを引き継いで賀名生へ。
つまり足利義詮が上洛。
鎌倉の新田義宗軍は上洛目指してたけど間に合わず。
新田義興と脇屋義治は、足利尊氏と戦って負けた。
なので尊氏が鎌倉入り。
どないかしたれや北朝の方々を
その頃賀名生では 、
えっとね。
本院 光厳上皇
新院 光明上皇
主上 崇光天皇
梶井宮 胤法親王
だったんだけど、
観応3年8月17日 崇光天皇の弟、茨宮が
後光厳天皇として即位。
⚠️本文中にお名前は無いですよ。
梶井宮の弟、承胤親王が比叡山座主に。
ただし三種の神器は無いまま大嘗祭。
とは言え天皇の母陽禄門院が亡くなったため、
京では三ヶ月間諒闇の儀(天子の服喪期間)。
一方で持明院殿や京の公家達の邸ばっかり300ヶ所、
寺も30ヶ所が焼失して、
盗賊が増えて京は荒れ放題。
仲間など容易く割れる
八幡合戦で武功があって若狭国もらえた山名師氏と、
もともと若狭国持ってた佐々木道誉との間で、
受け渡しが上手く行かず大モメ。
父親の山名時氏も一緒に南朝に降り、
京都の足利義詮を攻める。
義詮は後光厳天皇と東坂本に逃げる。
細川清氏も比叡山へ。
清氏天皇を背負って塩津の山越えたってよ。
長山さんでっかいマサカリ振り回してキャラ立ちすごい。
「さては良い敵、
只ひと打ちに失わんずるこそかわゆけれ。
念仏申して西に向かえ」
って台詞もなかなか面白いけども、
赤松氏範にマサカリ奪われて逃げる。
そんで赤松奪ったマサカリで殺しまくり。
あと実は生き残ってた高一族の一人、
師詮が敗走の末馬上で自害してる。
山名師氏は上洛したんだけど、
政務は四条隆俊が取っちゃうし、
自分の領地は伯耆国で遠いから、
ごはん手に入らなくて帰っちゃった。
だから私は足利直冬に弱い
足利尊氏が鎌倉を出て、
義詮と合流して京を攻める。
それを聞いた山名時氏は、
足利直冬を招いて総大将に。
賀名生の後村上天皇から尊氏・義詮追討令ももらう。
※なんか天竺や漢のエピソードが長々続いて、
「父の為に不孝ならん人、豈に君の為に忠あらんか」
とか非難されてるけど、
直冬にしてみたら知ったこっちゃねぇよな。
父ったってこちとら冷遇された一夜妻の子なんだよ。
直冬と山名軍上洛。
太子町にいた義詮を打ち散らす。
桃井直常軍に、
何でか足利高経も味方についた。
同じ足利家だったのにどうしてって、
同じ足利家だったからに決まってるだろ。
(※実は嫡流・庶流の別も無い同格だったらしい。)
源氏重代の太刀鬼丸・鬼切をめぐるいさかいだって、
しばらく名刀エピソードが続くけども。
神南(こうない)合戦
後光厳天皇を擁する足利尊氏・義詮軍と、
後村上天皇の勅命を受けた足利直冬・山名軍が、
摂津国神南で大激戦。
東坂本や東寺、八幡山でも。
第一陣や二陣は尊氏方の負け。
また尊氏「自害するー」って騒ぐから、
「俺らが討死する事見届けてからにしろや💢」
って佐々木道誉キレる。
そしたら何か尊氏がんばっちゃって、
山名師氏軍を山崎へ敗走させられたよ♪
京戦(2月15日合戦・3月13日合戦)
尊氏は東山、西山、山崎、
南朝軍は淀、鳥羽、八幡に陣を取る。
細川清氏、桃井直常と名乗って来た奴の
首取ったけど別人だった。
名を替えてでも命を棄てるのは讃えられるらしい。
一条、二条で細川・佐々木と桃井が合戦。
七条河原で仁木・土岐と桃井・赤松が合戦。
七条西の洞院で仁木・細川・土岐・佐々木と、
足利高経軍が合戦。
(那須与一の子孫が討死。)
細川清氏めっちゃケガしながらも指揮を続けて、
南朝軍敗走。
管領仁木頼章は嵐山から見てるだけだったけど、
山陰道塞いで、
足利義詮に山陽道、尊氏に北陸道塞がせたから、
足利直冬には河内路しか無くなっちゃって、
ごはん入って来なくなって八幡から堺に逃げた。
これで持明院統の本院・新院・主上・東宮は、
ようやく都に戻れたけれども……。
20年もの戦の結果
後醍醐天皇時代からずっと、
何かと言うと戦の繰り返しで、
都は荒れ果てて公卿達は凍死や餓死。
あるいは大井川・桂川に投身。
一方で武家は富みまくり。
各国の守護として好きなように治めまくるし、
地頭は家来のように使うし寺社まで支配する。
佐々木道誉は茶会開くし、
椅子に豹やら虎やらの皮敷いて金欄緞子で飾るし、
食膳方丈って言って膳の前に一丈四方の珍味並べるし、
茶の産地に銘柄当てた奴には褒美を取らすって、
沈香に麝香に染物並べて鮫皮の太刀とか造らせるし、
って執拗な描写が作者の妬みも表してるな多分。
亡くなった慧源(足利直義)に従二位贈られた。
尊氏は背中にできもの出来て54歳で逝去後、
従一位左大臣を贈られる。
尊氏の葬儀には、
天龍寺・南禅寺・建仁寺・東福寺・等持院の和尚が、
それぞれに役を勤めて、
義詮の和歌は新千載集に選ばれたって。
(帰るべき道し無ければ位山
上るに付けて濡るる袖かな)