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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ九(5/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2200文字+末尾に今後の予定)


「でよ。ここんところはわりと、俺、気分が良いんだ」
 涙を拭き上げてケロリとして見えた表情に、静葉の顔からは笑みが消えた。
「気分が良いってぇなると惚れた女に会いたくなるもんじゃねぇか。だから来たんだよ」
 笑い掛けてみた側が戸惑うくらいに、白けた表情を見せている。色味とあまりに異なり過ぎて、楠原には、かえって対応が難しい。
「あんたの方でもちょっとくらい、俺に気を寄せてくれたら嬉しいんだけどな。ほんの、ちょっとでいい。俺は、それだけでいいから」
「嫌だ……」
 フフッと、力が抜けたような笑みをこぼして静葉は、顔を上げてくる。
「貴方なんか好きになれるものですか」
「厳しいな」
「だって貴方」
 膝を詰め寄せ、顔は間近に寄せ合って、楠原さえその腕を伸ばせば重ね合わせ切れるほどまでに、身も寄せて来る。
「頭は悪いし、お金は無いし、今のお話で御身分も、そんなに大した事ないって分かっちゃったし」
「その辺はこっちだって、充分分かっちゃいるんだけどよ」
「いいえ」
 言葉と行動がちくはぐだと、楠原の方でも気が付いてはいたが、
「分かって、いらっしゃらないんだわ。じゃなきゃどうして貴方の口から私に、そんな事が言えるの?」
 右の目からひと粒涙を落とすが早いか、静葉の方から身を投げ出し、楠原の腕に手の動きに任せてきた。
 長く抱き寄せていたわりに、長襦袢の下で静葉の身体はまだしっとりと冷たくて、ここに来る前に水でも浴びて来た様子だった。つまりは旦那との床を抜け出して来たのだと、そんな折にはフッてくれて構わないと、前もって言ってあったにも関わらず、
「お顔だって、憎らしくてしょうがないわ……」
 静葉の方でも会わずには、顔だけでも見ずにはいられなかったものだから。 

 ゆっくりと、時間を掛けて静葉を抱いた。
 言葉では何も言い交わさずに、時折唇を重ねては、表情や、色味の一つ一つを確かめながら、進めて行けた。
 静葉の方でも今夜は、広告塔を降りていた。どうせこの部屋には誰も残っちゃいないんだから、演じて聞かせたって意味が無い。むしろ俺にしか聞かせたくないみたいに、俺の頭を抱き締めて耳元で、小さく可愛らしく鳴いていた。
 名前を、呼びたかったけど、俺はこの人の本当の名前は知らないし、
 名前を、呼んでもらいたかったけど、この人にとっての俺は「楠原」でしかなくて、
 どうしてこんな事になっているんだろう。ここまで深く繋がれた女と、どうして本当には何も知り合えちゃいないんだろうって、思ったってそんなのは、実を言うと静葉に限った話でもなくて、
 花魁と客の立場ででもなけりゃあ、お互い本来の、自分たちのままだったら、この人にはきっと出会えてすらいない。
 見詰め合って、頷かれて、こっちの側は随分と呑気に、良い気になって、
 こんなの本当は良くないって、俺の子出来るかもしれないって、分かってんのに、
 静葉の方では心地良さそうに、受け入れてくれて、俺は色味が見えるから俺だけの勘違いでもないよなって、今は思えていたってそんなもの、女の頭の中ではひっくり返るんだ。変な事、口走ってしまって傷付けて、嫌な別れ方にでもなったら、一気に。
 行燈の灯りに照らして見た、白い指先には、麻疹のような赤い点々が細かく浮かんでいて、逝った時の静葉はそうなる事を、俺は知ってるから、指先に、頬を当てて撫でて口付けて、何度もそれを繰り返して、
 静葉の方でも、俺に知られている事を知ってるから、恥ずかしそうに目を逸らして、でも、腕に指先は俺からされるがままになっていた。
 言いたい事に、言わなきゃならない事ならお互い、それぞれにあったけれど、そうした仕草を代わりにして、それで分かり合えたつもりにした。

「そろそろ、お起きになって下さい。朝ですよ」
 幼い声が届いて一気に、目が覚めた。跳ね起きたせんべい布団の傍らに、正座した少女が微笑んでいる。
「おはようございます。楠原様」
「うわ。小鈴かよ」
「小鈴は、お嫌でありぃすか?」
「いや。そういうことじゃねぇけどよぉ……」
 笑顔に邪気が無いものだから、余計に褌も締めていないこちらが恥ずかしい。
「姉様の方が、よろしかったんでしょうけれど、その、お忙しいので」
 それはそうだ。朝は旦那方の送り出しに忙殺される。そもそも廻し部屋の客ごときが、泊まってしまった事自体が図々しい。
 追加で宿泊料を支払っている間、若い者たちは目配せを交わし合い、クスクスと笑い続けていた。一晩中何にも無しでほったらかされ続けたものと、いい気味みたいに思われている様子だが、暖簾をくぐって出た先で、今日も伏せた樽に腰掛けている、ソイツの目線は物言いたげだ。
「もう、来ねぇよ」
「ったりめぇだろ」
「なんで、お前だけが知ってんの?」
「明け方様子見に遣られた時に、小鈴が入って行くのが見えたからな」
「話してねぇんだ。誰にも」
「俺がそれ話して何か得になる事でもあんのかよ」
「ありがとう」
「……礼を言われる筋でもねぇな」
 玄関中央に構えた赤い布張りの大階段からは、ちょうど静葉の声が旦那に伴われて、下りて来るところで、随分と上機嫌な旦那の高笑いが、玄関中に響き渡ってもいた。
「良い御身分だなって、言ってやれんのかどうかも分かんねぇし」
 樽の方からはソイツのぼやき声も聞こえてくる。
 出来る事ならもう一度、声を掛けて腕に抱き締めたかったけれど、諦めた。


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→ 地獄ノ一 闇に入る

これで気が晴れやしないんです。
ここからが地獄の入り口なんです。


ところで地獄編からの全6回(予定)は、
ほとんど二月の一か月間の話になるので、
毎週日曜連載では、
どうにも季節感が合いません。

2025年1月13日から、
月曜〜木曜(時に金曜)の、
平日連載に切り替えます。

それまで休みます。
というよりそれまでに、
残り約9万文字分(予定)を書き上げます。

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