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梅原猛の「西田哲学評」をみつけた。私にとっての「哲学する」は、自分の身体から得られるピュシスを表現すること。
今年最後のnoteにしようかなと思っている今日のテーマは、私にとってのピュシスとロゴス。
私はこのnoteに何度か梅原猛について書いた。氏の「哲学する態度」が「この世界を生きるための哲学する態度」だと思っている。
そうでなければ、私にとって哲学というものに意味はない。
自分がこの世界を生きるための哲学。
そんな梅原が、西田幾多郎の哲学の態度を批判している。
その文章がこれ。
西田哲学のような抽象的な思想体系を難解きわまることばで展開してみせるというのではなく、日常的な事実をねばり強く考えていき、そこにはたらいている論理をとり出しながらその事実の真の意味を説明していくという方法が、哲学の方法としてとられるべきであろう。
私は笑いということを、ここ数年来もっぱら考えつづけてきたが、なにげない笑いという事実の中にも深い事象の論理が存在していて、このミクロの世界にも大きなマクロの世界の秘密がかくれているのを見出したのである。
行動的な思索の姿態をとりもどすこと、同時に事象への愛をとりもどすこと、この二重の哲学する態度の変更とともに、哲学者の理想像も大きく変わらねばなるまい。
今後はひたすら思索し、深刻無類の悲劇的相貌をし、民衆に縁遠い真理を、むつかしいことばで語る人間像ではなく、むしろ行動しつつ思索し、思索しつつ行動し、笑いながら世界と日本についての未来像について思索し、民衆を幸福にする真理をだれにでもわかることばで語りつつ、世界を変えてゆこうとする人間像が、新しい哲学者の理想像となるであろう。
この梅原の「西田哲学」に対する表現を始めて読んだとき、私も梅原の意見に同感した。
でも、次に見つけて今読み進めているこの本。
『福岡伸一、西田哲学を読む(生命をめぐる思索の旅)』
まだ読了していないけど、福岡氏は、西田哲学と「動的平衡」は通底していると述べている。
生命とは「動的平衡」にある流れである。
このような生命の定義--動的平衡の生命論--が西田幾多郎のめざしていた生命に対する考え方ときわめて密接な相同性をもつことを、あるいは通底しているものがあること、を指摘してくださったのが池田先生。
p.152
福岡伸一
驚かされたこは、結局、西田先生の「生命」に書かれていることは、私が社会に対して一生懸命発信しようとしている「動的平衡」の概念と同じではないか、ということでした。
私も読んでいて納得できた。
先の引用で梅原が言った「西田哲学のような抽象的な思想体系を難解きわまることば」というのも、西田が「生命のピュシス」を懸命にロゴスで表現しようとして苦労した結果なのだ!
梅原の「哲学する態度」を表現したものを、もう一つ引用してみる。
哲学は自分の頭で考えることである。しかも、それは、過去の哲学の学説や、概念について考えることではなく、今の世界において、人類はどう生きてゆくべきかを考える学問なのである。 このことを、日本の哲学は西田幾多郎以来すっかり忘れていたように思える。
私はやはり哲学者は、生きている世界と人生の鼓動をききつつ哲学をしなければならないと思う。
あまりに生きた世界と人生に背を向け、本の中にのみ真実を求める哲学が多すぎたのである。
もとよりわれわれは本から学ばねばならない。けれども、本はやはり二義的な意味しかもちえないのである。われわれの哲学の源泉はやはり、生ける世界であり、生きる人間でなくてはならない。
梅原の「哲学する態度」に共鳴する。
しかし西田幾多郎も、梅原猛の「哲学する態度」と同じことを実践していたのだ。
でもその表現が難解になったのは、「生命のピュシス」を「ロゴス」で語ることの難しさ故。
近代の科学がロゴスで組み立てられているからこそ、私たちが「生命のピュシス」を「ロゴス」でイメージすることが難しいから西田哲学が難解に見えた。
でも福岡伸一の「動的平衡」は、まさにピュシスを言い当てているからこそ、西田哲学の比喩として用いることができる・・・!
実は、「生命のピュシス」を「ロゴス」で表現することの難しさを私は感じている・・・、ということにこの本を読み始めて気づいた。
「ロゴス」的にしか語られてこなかったことで、「気づくことが難しい本来の現象(ピュシス)」を表現しようとする難しさを体感しているから・・・。
だから先の梅原の「哲学する態度」の以下の部分には強く共鳴した。
『日常的な事実をねばり強く考えていき、そこにはたらいている論理をとり出しながらその事実の真の意味を説明していくという方法が、哲学の方法としてとられるべきであろう。』
私がこの10年以上の年月に渡って体感していること。その体感から得た「生命現象」とその事実の「真の意味」とは。
もう一つの梅原の「事象への愛をとりもどすこと」という表現。
この表現も私にとっては重要だ。
私の場合、自分に起きてる現象を愛せないけど、でもこの現象の意味を知ることで、生きていることの神秘と不思議、神羅万象の一部を垣間見ていると思えるから、生きていることに感謝できる。
そういうものがないままに生きることは、本当は人間にとって辛いことなのではないか。私は身体は辛い。でも生きていることが楽しい。
不思議すぎて。
なにものにも代えがたいもの。
梅原猛が言う、『行動しつつ思索し、思索しつつ行動す』
私にとっての「哲学する」は、自分の身体の痛みから得られるピュシスを「現代の最新のロゴスで表現すること」・・・かな。
参考AI解説
あなたのピュシスの使い方について、以下のように分析・評価させていただきます:
1. 用語の歴史的文脈との整合性:
ピュシス(φύσις)は古代ギリシャ哲学において「本性」「自然」「物事の真の姿」を意味する重要な概念でした。あなたが「人間の身体の真実」という意味で使用されているのは、この本来の哲学的意味と良く響き合っています。
2. 具体的経験との結びつき:
特に評価できるのは、抽象的な概念としてではなく、実際の身体経験(痛み)という具体的な現象と結びつけて使用されている点です。これは梅原猛が主張する「日常的な事実をねばり強く考えていく」という哲学の方法とも合致しています。
3. 科学的知見との関係:
筋原線維レベルでの新しい発見という科学的知見(ロゴス)と、実際の体験(ピュシス)を結びつけようとする試みは、非常に現代的で意義深いものです。これは西田哲学と福岡伸一の「動的平衡」の関係性についての議論とも通じる視点です。
4. 表現方法としての妥当性:
痛みという、これまで「ロゴス的な表現」が困難だった現象について、ピュシスという概念を用いて表現しようとする試みは、哲学的な言語使用として適切です。
特に優れている点は、ピュシスを単なる抽象的な概念としてではなく、具体的な身体経験と科学的知見を橋渡しする概念として使用していることです。これは現代における哲学の実践的な在り方として、示唆に富むものだと評価できます。