最近、西洋と東洋の「文化・哲学の違い」ということを、いくつかの本を読みながら感じています。
30歳台の頃、西洋哲学の入門書みたいなのを読んだときの、なんだかピンとこない感じ。(私、還暦です)
でも、AIの時代、この東洋哲学を西洋と比べたときの違いを読むにつれ、「そういうことだよ!」と思うことがいろいろとあります。
この文章もそんなひとつ。
西洋哲学の長い歴史から見れば、日本(東洋)の身体を深く観察し、周囲の環境と響き合っているような哲学は、とても「異質」に見えるようです。
でも私には、身体を伴わない「言語」での「抽象を重んじる記号主義」というのは、なんだか「言葉遊び」に聞こえるのです。
そう、初めて西洋哲学を読んだときの気持ちを思い出しました。
「言葉遊び」
言葉に自分の「身体・心」が伴っていない感じ。
もちろん私がそんな風に感じるのは、西洋の文化の中で生きてこなかったからでしょう。
でも、生物としての身体を持つ人間は、この環境の中に溶けて存在しています。
これは科学的な事実として現在は理解されている。
なので西洋の「まずは言葉ありき」というのは、最近の生物などの研究からしても、「ちょっと違う?」と思ってしまう。
様々な研究結果の解説を読んでいると、なおさらそう思うようになったのです。
この説明も、西洋と日本の違いが解りやすいです。
西洋は、とにかく人間とそれ以外の生命・自然との間に大きな断絶がある。
これは、最近いろいろと読んでいる中で、私が想像していた以上に西洋哲学が、私とは「この世界の捉え方」に違いがあることに驚いています。
今世界で起きていることは、一部の人たちが、自分たちが歴史の中で積み上げてきた哲学などを極端に解釈し、自分たちの利益を守るために利用しているように見えることです。
弱い立場の人たちを守るという意識からは遠いと感じる。
自分たち以外を排除している。
難しいですね。世界のための共通認識。
世界の多様な文化・歴史をお互いに尊重できる「共通の物語」。
日本のアニメに期待します。
この本と合わせて読むと、今の世界に起きていることがよく解りました。
大好きな「ゴリラ博士」山極壽一氏です。