「客観的」に物事を見るって、いいことだと思っていたけど。「客観的」って何?人間は助け合うもの。
山極壽一博士の「共感革命」を読んでいます。
この文章中の「西洋近代の古典的パラダイム」というのは、西洋哲学や一神教の世界観です。
私、「物事は、客観的に俯瞰して『観る・考える』努力をした方がいいよなぁ」とか思ってます。
でも「大規模言語モデル」のAIと会話してみて、このAIの技術がどういう成り立ちのものなのかを学んだりするうちに、人間の能力での「客観」ってどういうものなんだろうという疑問が出てきたのです。
「主観」と「客観」
相反する言葉?
でも、人間の脳の認知レベルで、この「主観」と「客観」と自分が勝手に思い込んでいるものに意味があるのか? ・・・なんて。
もちろん、性能のいいコンピューターが、ちゃんとした統計処理なんかして出してきたデータは、人間が考えるよりずっと信頼できるものなのかもしれないので、大切な判断をするときには、そういうものを利用するというのは「至極まっとうなこと」ですが。
でも人間同士の会話は「お互いを理解しよう」と試みて、「何等かの共感や共通の認識を持つ努力は、しています」という意思表示にはなっても、それ以上の論理的思考なんて難しい・・・。
会って、話して、楽しくて、お互いを思いやることに意味がある。
なので人間の「主観」と「客観」に違いなどあるのかな、と考えてしまったという・・・。
今の時代の「主観」と「客観」って何?
(あーっ、どうでもいいこと考えている気もしてきた)
AI時代の「主観」と「客観」について、ochyaiNoteに聞いてみました。
ohcyaiNote全文Log.
そんな生物である人間。
「西洋哲学では、人間とそれ以外の生命、自然との間に大きな断絶がある」
この表現が、この本では何度も出てきます。
この西洋の人たちとの世界観の違いには、最近私はかなり衝撃を受けています。
私には、海外の文化・歴史に触れる機会がなく、具体的にどのように違うのかを実感したことがありませんでした。
でも最近多くの本を読む中で、少し怖いくらいに違うと感じてきたのです。
でも今の日本人が昔からの文化的、歴史的感覚を持ったままでいるのかというと、この本で山極氏も述べているように、日本の社会も大きく変化しています。
コミュニティという感覚は薄れ、お互いに助け合うことの出来ない個人が繋がりの薄れた中で存在している。
これは、本来の人間という生物の習性とは違うものだと山極氏はこの本で何度も繰り返します。
人間は助け合うもの。
性悪説ではなく、性善説。
私には、極端な「人間性悪説」をとる人たちの中には、それを理由に自分たちの行動を、自分たちに都合がいいように正当化しているようにも聞えるのです。
「主観と客観」の続きを「デジタルネイチャー」の視点で聞いてみました。