『最後にして最初の人類』の感想 山中りんたそ
読み終えてから1週間。久々に余韻が残る読書体験をした。今回、私が読んだのは『最後
にして最初の人類』という元祖SFものとも呼ばれる叙事詩的小説である。1930年にオラフ・ステープルドンが書いたこの小説は、20億年後の人類が現代(1930年当時)の人類に対して語りかけるという手法を取られている。そこには、20億年後までの人類がどのような社会を築き、栄枯盛衰を経たのかが語られている。
今後の人類は、英仏戦争、欧米戦争、米中戦争での核の使用によって、北極を除く地域に人類が住めなくなり、人口が激減する。原始社会へと戻った人類は再び文明を築くものの、火星人類の侵略に苦しめられる。その後、環境の変化により、全人類は水星のち海王星へ移住。太陽の膨張によって太陽系消滅の影響を受けて人類は滅亡する。
なんという壮大なストーリー。20億年という類を見ない圧倒的なスケール感で書かれている。特に、考えさせられるのは核戦争で人類が滅亡しかけたり、火星人の侵略、太陽系消滅などといった、危機の予感である。
今回、この本を読んで改めて“未来がどうなるかはわからない”ということを実感した。”どうなるかはわからない”というのは、未来が”衰退する可能性”があるということである。
現在、私は24歳だが、将来についての話をする際に親世代とのギャップを強く感じる場面が多い。そのギャップこそが、未来の可能性についてなのではないかと考えている。
親世代の特徴を端的に表してしまえば、「ドラえもん世代」である。未来は、科学の発展によって希望に満ち、100年後は都市間をつなぐ空中トンネルを車が通り、空飛ぶ自動車が1家に1台、家事はすべてロボットが行い、、、というような、まさにドラえもんがきた22世紀が到来することが期待されていた。時代背景的にも、東京オリ、パラ、大阪万博に代表される高度経済成長の影響で、資本主義国の中でアメリカに次ぐGDP世界2位になり、今後も日本経済の成長が多いに予想されていた。そんな時代である。そんな社会環境で育った子どもは必然的に、明るい未来を想像する。だから「日本の未来はwow wow 世界が羨む」とか「明るい未来に就職希望だわ」なんて歌詞が出てくるのだ。
対照的に、現在に明るい未来の求人があるだろうか。少なくとも、私の身の回りにはあまり見当たらない。多くの人は、今の生活に焦点を当てて、消費的な行動に走っているように思われる。それは、未来社会が衰退する可能性を含んでおり、あまりにもアテにならない、不確定なものであると認めているからである。私の世代は、小学生の時に東日本大震災を経験し、大学生の時にコロナ禍を経験した。私にとって、この2つの大きな経験は、何が起こるか分からない、10年後が今日と同じとは限らないと潜在的に強く認識させられた出来事であるに違いない。
だからといって、将来のことを考えずに享楽的に生きていきましょうなどとは思わない。きたる今後に向けて備えることの重要性くらいはわかっているつもりだ。ただ、予想通り来るかわからない未来(おそらく来ない)に向かって投資を続けていくことは、私にはできない。バランスが大事だが、「あの時やっておけばよかった、、、。」という後悔をしない生き方をしていきたいと思う。