時は何のために 秋豆絹
前回の桜を見たすぎる人間が書いたnoteの投稿から2週間。
満を持して桜は満開を迎えた。
特に盛りを迎えた先週の土日、土曜日は前々から入っていた別の予定があったので花見をパス。
日曜日は、仕事が最近多忙になり、心身ともに疲弊していたので、近くの小さな桜の木を見に散歩に出かけた。
通りに面している料亭の庭に植わっている桜の木なので、こじんまりとはしていた。しかし、街並みにいつもとは違う多幸感をもたらしていて、春が来たのだなあと実感した。
絶景スポットには行けなかったけれども一点の曇りもない青空の下で桜を拝むことができた。今年はこれで満足だ。そう思っていたのだが。
3日後の水曜。その日も仕事があまりに目まぐるしく、昼休憩中に書類を役所まで直接提出しに行くことになった。
昼ごはんもそこそこになんとか書類を提出し、休憩時間内に会社に戻らねばと早歩きで戻る中でのこと。
信号待ちの向こう岸に桜の木を見つけた。
その桜はもう若干青葉が出ていて、連日襲い続けた雨風に負けて、花びらが次々と風に流されていた。
私は、歩道の信号が青になるまで、その花びらが風に吹き飛ばされていく様を見た。
ああ、せっかく一年待ってやっと咲いたのに、もうまた一年その姿を見ることが出来なくなってしまうのか。
目の前で刻々と花が散っていく。
この瞬間、この一年を乗り越えるのにどれだけの辛いことや苦しいことに直面したか、また次桜を見る頃までに、どんなことを耐えなければいけないのか、どっと脳内に溢れてきてしまって、途方もない気持ちになってしまった。
こんなことなら、「近くの桜で」などと妥協せずに、満面の桜を享受すればよかった。「1年経てばまた必ず見れること」と自分が費やしたこの1年を軽んじなければよかった。
きっとそれは他の事も同じで、来る夏、来る秋、来る冬すべてに共通して言えることだろう。
社会人になって、目の前の仕事に囚われて、「1年」を仕事をこなすためのリソースだと思うようになってしまっていた。時間を他人の利益のために使いすぎてしまった。
全ての事象を大切に思うのはかえって息苦しくなってしまうかもしれないが、このまま自分の時間を手放して、社会に注ぎ続けたらどうなってしまうだろうか。
来年、桜を見る私の心象が、これからの1年の総決算を示すだろう。
今が私の勝負時だ。
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