第83夜 愚にして鈍だが駄ではない
湯で戻ったキャベツがカップ焼きそばのフタの凹みからなかなか取れない。横着して片手で挑んだら麺の入ったカップを流しへ落としてしまった。ステンレスの傾斜は無常にも麺たちを排水溝方面へ運ぶ。慌ててカップへ戻そうと素手で掴み上げたら、湯切り直後の熱さで思わず宙に投げ上げてしまった。給与前最後の食料はこうして流水洗濯麺となり、冷えた胃を一層唸らせることになった。
西添健太の1週間は散々な始まりとなったが、さらに月曜は日常業務で一番嫌な作業である内科棟清掃から始まる。鎌倉では一番駅から近い総合病院で清掃処理の仕事をかれこれ二十年ほどやってきたが、どうしてもこの作業は克服できない。それは他棟に比べ血を見る機会が多いからだ。一応医療廃棄物処理資格は持つので覚悟の上ではあるが、都度患者の状態や治療の様子を思い浮かべて辛くなる。さらに、特にこの棟に多い注射や採血の針の処理にも気を使う。ある時油断した際、針を踏んでしまったことがあった。どうやらインフルエンザ予防接種のものだったようで、受診者が肝炎などではない限りは自分も微量接種されたようなものと言い聞かせ何事もなく今に至るが、やはり怖い。40を迎えての独り身ゆえ、気を使う対象も無いのだが、この身をぞんざいに扱うわけにもいかない。
「西やん、こうも暑いと集積場もきついだろうね。適度に休憩とって熱中症にならないように気をつけてね。あんたはのめり込むと他が見えない別の熱中症でもあるから」
総務局の角田課長が声かけていく。それなら冷房つけてくれよと思うがどこの世界に地下のゴミ置き場にそんな費用をかけるところなんかあるものかと思うので、せめて経口補水液でも差し入れてくれりゃいいものをとやり過ごす。言われる通りこの集積場は保管するものがものだけに外部と遮断されているので風が入る余地はなく、それなのにアルコールの染みたガーゼなんかが大量にあるので換気扇は常に回っている。ゆえにとてもうるさい。だからカラオケがわりにここでは歌う。
ハウンドドッグのフォルテシモをもう少しで歌い上げようかというところで誰かに肩を叩かれた。全然気が付かなかったが、月曜朝のゴミの回収がやって来ていたのだ。業者の征さんだ。彼とは十数年来の付き合いで、互いの給料日に大船に飲みに行く仲でもある。
「お前さんの大友(ハウンドドッグボーカル)は浪曲師か? そんなに濁声でガナったんじゃあ朱鷺のすみれさんも顔背けちまうぞ」
朱鷺とは大船のスナック、すみれさんはそこの70過ぎのママだ。通い出した頃はまだ50代だったからドレスを着てママらしい装いをしていたが、数年前、頭にスカーフを巻きだしてからは、なんだか浦辺粂子みたいになった。
「いやですよー」
征さんは鶴太郎が真似する浦辺の真似をしながら、どんどんゴミ袋を外へ運び出しトラックのダストシューターに投げ込んでいく。ブレードがゆっくり回転して奥へと送り込んでいく。健太はゴミたちに手を振った。
仕事が終わりアパートへの帰途、頭の中は給料日までどう食い繋ぐかでいっぱいだった。二進堂パン屋の右奥のお徳用ワゴンにある食パンの耳は毎月のお助け食品だが、冷蔵庫に唯一残るポケットのマヨネーズを付けるだけではあまりにもひもじい。ここは鎌倉の特権である海の幸にあやかることにする。小学生の頃から無事折れずに使い続けている延べ竿を持って材木座の浜に向かう。幸いにも昨日から海が荒れたので海藻類は容易く拾うことができるが魚貝類は難儀だ。健太は手始めに打ち上げられ干上がっている小魚をむしって針につけると、和賀江島東側の岩場へ向かう。
日没前のいわゆる絶好の釣り時である夕まづめなのでいろんな生き物がワサワサしている。慣れた手つきで竿を操り岩の隙間にむしった魚を送り込むと100円玉くらいの胴体のカニがあっさりかかる。それを岩の上で石を使ってグシャっと潰すとそれを針につけ、今度は堤防沿いに進んで、テトラに登る。上げ潮のテトラはワサワサ動く甲殻類やへばり付いた貝を狙う魚たちが集まり、大海の中においてピンスポットで狙いやすい絶好の漁場なのだ。そっと潰れガニを水中に落としていくと殻から染み出す内臓を狙う小魚たちが群がる。一網打尽にしたいところだが網も入らない小さな隙間なので諦め、内臓が出切らないうちに本命の獲物を待つ。小魚を散らす意味でも潰れガニを上下に動かすと同時に殻の割れ目が開き内臓が多めに周囲に広がる。いよいよ潰れガニの存在が絶頂になった頃、ゆらゆらと本命がやって来た。クロダイだ。隙間が狭いので大物ではないが20センチは超えていそうだ。クロダイは脂がのっていて汁に入れたら絶品なのだ。これは逃すわけにはいかない。健太は小魚を避けながら、汁用のクロダイの気を引くべく潰れガニを小刻みに揺らす。思いのほか派手に内臓が大量放出された途端、汁用クロダイは飛びついた。
海藻とクロダイのすまし汁は確かに最高の出汁が出ているが、空腹で気が早ったためか不覚にも鱗を取り忘れた。油の乗った白身を味わおうにもしっかりした鱗がワサワサと口の中で逃げ回る。そいつらだけを口内から取り出すことは不可能で、イコール絶品脂身を放棄することを意味する。それは断じて避けたい。健太は鍋の身から鱗を取り去る手段に出た。火の通った身から鱗は難なく外れたが、欲張って沢山入れた海藻の隙間に鱗たちはワサワサと入り込んでいく。こうなったら鍋の中身を一旦取り出し、海藻から鱗たちを洗い流し汁を濾すのが早い。が、ここにはザルという気の利いた器具などない。4畳半を見渡すと代わりになりそうなものは…網戸。いや、このアパートが出来た頃からそのままであろうあそこには、数十年の埃と代々体当たりし続けてきた蚊一族の怨念が纏わりついているから、やはりダメだ。さらに見渡すと…ゴミ箱に今朝のカップ焼きそばの容器がある。なあんだ、うってつけのものがあるじゃないか。健太は早速鍋の絶品汁をカップにすべて入れ用心深くフタをしっかりはめると、えいと角の放出口から放出した。…そうだ、この容器を手にした時から中身は3分戻した麺であると錯覚してしまったのだ。間違いに気づいた時には大方の絶品汁だけが流しに消え、分離しなかった鱗まみれの海藻が水分を失った脂身と共にカップに残った。朝同様、洗濯する羽目になった海藻は健太の胃を激しく唸らせた。
ひもじさは意欲をマイナスに誘引するが、妄想はプラスへと向かう。せんべい布団に横になると悲しいかな朱鷺のすみれさんが現れる。
「西やん、しょうがないわねぇ」
そう言いながら、流しでいつものお通しの厚揚げの煮たのを作っている。甘塩っぱい匂いが四畳半に充満する。
「すみれさん、すみません。いつも鈍臭くて。次は頑張りますんで」
「いいのよう、頑張らなくたって。あなたいつも一生懸命やってるじゃない。お仕事も毎日行ってて立派よ」
「すみれさん…」
いつしか朝になる。給料日は金曜日。あと3日凌がねば。