第34夜 道元の階段
「お父さん、あの階段何か字が彫ってあるよ」
父が大船に行くついでに学校の近くで降ろしてもらうことにして車に乗ったが、八幡宮脇から美術館に差し掛かるところで珍しく渋滞が発生していた。遅刻が気になり始めた清隆は助手席の窓ガラスに額をつけて不機嫌にしていたが、道元禅師顕彰碑のところで声を上げた。
「お、気づいたか! 父さんも散歩してるときに見つけたんだが、あの階段は16段あってな、一段ずつ人生への戒めが彫ってあるんだ」
”只管打坐”。道元の教えが彫られた巨大な石碑に向かって16の戒めが1段ごとに刻まれている。
「普通に昇るだけだと絶対に気が付かないよね。あんな左下のしかも垂直のほうににさりげなく彫るなんて、なんだかすごいね」
「しかもな、あれはこれ見よがしにどうだ!なんて風じゃなくて、どこにも解説されてないんだ。”その階段を昇るが良い。おぬしの迷いは一段づつ消えていくぞ。そのためには只々座れ。邪念を払え。身体を忘れろ。カラになったその時、ようやくそこに辿り着く。だがそこは終点ではない…” みたいな無言のすごみがあるな」
「ふーん」
清隆は建長寺の敷地に建つ中高一貫の学校にこの春から通い始めている。もちろん坐禅などもカリキュラムに入っているが興味はない。むしろ辛い時間だ。それを除けば学校は楽しい。読書好きなので読書部に入った。皆集まって黙って読書をするのではなく、面白かった本を紹介し合うのだ。先輩たちは広いジャンルを読んでいてすごい。藤原先輩が鎌倉にまつわる本をたくさん読んでいると聞いたので、今朝の階段の文字のことを話したらちゃんと知っていて、図書館にある一冊を勧めてくれた。清隆は早速図書館でその本を開いた。
「十六条戒ってのがあって、それは
三帰戒(さんきかい)
・帰依仏 (素直になる)
・帰依法 (決まりを守る)
・帰依僧 (仲良く生活する)
三聚浄戒(さんじゅじょうかい)
・摂律儀戒(しょうりつぎかい) (善いことだけをする)
・摂善法戒(しょうぜんぽうかい)(善行に励む)
・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)(世に利益する)
十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)
・不殺生戒(ふせっしょうかい)(命を大切にする)
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)(盗まない)
・不貪婬戒(ふとんいんかい)(不倫をしない)
・不妄語戒(ふもうごかい)(誤解を受けることを言わない)
・不酤酒戒(ふこしゅかい)(酔って生業を忘れない)
・不説過戒(ふせっかかい)(責めない)
・不自讚毀他戒(ふじさんきたかい)(中傷しない)
・不慳法財戒(ふけんほうざいかい)(善いものは分け合う)
・不瞋恚戒(ふしんにかい)(怒らない)
・不謗三宝戒(ふほうさんぼうかい)(素直になり、決まりを守り、仲良く生活することを軽んじない)
からなっているのかぁ」
漢字は並ぶがその意味は中学1年の清隆にもよくわかった。それ以来、車で送ってもらった日以外は北鎌倉駅から歩いて登校するのが楽なルートだが、清隆は材木座の自宅からあの階段の前を通っていくことにした。毎日それらの文字に接するうちにそれらの文字が頭に入り、空で言えるようになった。父も驚いていた。座禅の時間も線香が消えるまで座っている間、これらの文字を唱え続けているとあっという間だった。じゃあと、般若心経をはじめとする短いお経をひとつずつ覚え、座禅時間はどんどん日常茶飯になっていきやがて高校へ進んだ。
高校の読書部では藤原先輩はさらにパワーアップしており、鎌倉博士を卒業し仏教博士になっていた。空で般若心経などを唱える清隆を見込んで禅問答をしてきた。
「清隆、仏とは何ぞ?」
清隆は本で読んで知っていた。
「三斤の麻」
藤原先輩は満足そうな表情で、
「いいねえ、その調子その調子」
といいながら、その後も会うたびに問答を仕掛けてきてそれなりに答えていた。
藤原先輩は京都の大学に進学が決まり読書部卒業祝いの会で最後の公案を投げてきた。
「悟りとは何ぞ?」
これは簡単ではない。清隆は即答できないまま藤原先輩を送り出すことになってしまった。
1年が過ぎ清隆は東京の私立大学の理学部物理学科に進んだ。量子力学の勉強をするにつれ、日課の座禅で唱える般若心経に接点を感じていき、調べると確かにそういったことについて書いた本は沢山あった。
「お釈迦様が量子を知っていたはずはないけど、この世の根源を突き詰めていくとマトリョーシカみたいにどんどん小さなものに考えが行って、結局目に見ることのできないものに行きついたんだろうな…。まてよ、それを大昔に気づいたことを”悟った”と呼んだんじゃないか? 所詮人間なんて粒子の寄り集まったもので成り立っていて、100年くらいしか存在しないんだから十六条戒を実践して有意義に過ごしましょうよ、ってことになるよね」
清隆は藤原先輩の公案への答えが見つかった気がしたが、
「まてよ、じゃあ素粒子が解明された今、全員が悟りの境地に達したってこと? いや、そんなわけがないよね。じゃあ、まだ解明されていないあれのこと?」
清隆は毎日の座禅で”あれ”について考え続け、大学2年の夏、読書部OB会であの公案以来久しぶりに藤原先輩に会うことができた。
「藤原先輩、3年考え続けて答えが出ました」
「そうかひたすら只管打坐したのか! よし、答えてみろ」
清隆は気負いなくこう答えた。
「超次元」
藤原先輩は大きくうなずいた。
「いかにも。ただし私ならこう表現する。”メタバース”と」
清隆は新たな座禅時間を感じ小躍りした。