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【短編小説集vol,15】鎌倉千一夜〜天賦礼賛

第75夜 脈打つ動静

「お前、写真を撮るときに何となくシャッター切ったりはしないだろ。撮りたいところにピントを合わせて、被写体を狙っていくよな。絵画の場合は端から端まで描いていくわけだから、画家ってのは全部に気を配っているんだけど写真家は切り取ることが仕事なんだ。しかも一瞬をだ。だから写真は闇雲に撮るもんじゃねえ」
師匠はいつもいちいち口説い。写真なんて何枚か押してるうちに決定的な瞬間が写るはず。それをやれ被写体と会話しろだの、肉眼以上に寄れだの、精神論が先に来るのもなんだかうざい。
「師匠、フィルムの時代は36枚毎の交換が必要でしたが、今のデジタルはほぼ無尽蔵です。それでもシャッターを切り続けちゃダメですか?」
「それがダメなんだ。お前はあとでレタッチすりゃあいいと思ってんだろ? そもそもそれじゃあ街の定点カメラと一緒じゃねえか。お前は創造者なんだろ? 記録係じゃねえんだろ? じゃあとやかく言わずに相手の瞳孔に焦点を絞れ! そのうちお前がその瞳孔に写ってるのが見えてくるから。つまり自分を撮ってるようなもんだ」
「師匠、相手の心を撮るんじゃないんですか?」
「お前、もっともらしいことを言うんじゃないよ。心なんて撮れるわけねえじゃないか。写真から心を感じてもらうんだ。猛烈に忙しい寝てもいられねえような映画の撮影現場から抜け出してきてくれた俳優さんは、強烈に疲れてるんだ。いや、憑かれてるんだ、自分ではない役という人格にな。映画のカメラは役に憑かれたそいつを撮るが、俺たち静止画は自身と役の二重人格を押さえるんだ。憑かれてる瞬間しかそのチャンスはない。何も人間だけじゃねえ、景色だって二重人格の瞬間はある。なんとなく見ている景色を撮ろうとした時、お前は見渡せる範囲をパンフォーカスで撮ろうとするだろ? 違うんだ。富士山だったらお前は何を狙う?」
「それはもちろん威風堂々不ニの山の姿です」
「だからな、お前は記録係なんだよ。富士はただ聳えてるんじゃなくて辺り一帯に名水をもたらしているだろ。我が子に乳を与えているんだ。それがもうひとつの顔だ。威風堂々としながらせっせと乳をあげてるな。そこを撮る。そこからは人それぞれだが、俺ならなるべく大木を見つけて、同じ高さになるアングルから撮るな」
「確かにそれは二者の関係性が生まれます」
「な。そういうことだ」
「じゃあ動画はどうなんですか? 刻々と転換する画像に全て二重人格要素を入れられるものなんですか?」
「お前の視覚は静止画か?動画か?」
「動画、ですね…」
「な。だからいつでも観ていられるんだ。ずっと二重人格を見続けたら脳がパンクするわ。動画はそういったメッセージに緩急をつけることをするんだ。目を背けられないようにな。そんで次の展開が気になるように撮る。人気のない道をしばらく流してみな、誰もがそろそろ何かが現れるだろうって見続けるだろ。動画はシーケンシャルに続いていく魅力がなんてったって武器なんだ。写真も映画も見てもらってなんぼだ。写真の場合は見てもらった後はその人の想像にバトンタッチするんだ。撮る側の意図を汲み取ってもらったらありがたい。でもそうじゃなく見る人独自の解釈をしてもらえたらもっと素晴らしい。撮る側の意図以上のものが写ったってことだからな」
「師匠、映画は平凡な日常を記録しても次の展開に期待感を持たせられそうですが、写真は1枚が全てですよね、たった一コマにどうやってドラマ性を入れたらいいんでしょうか?」
「お前は全部オートで撮ってるわけじゃないだろ? まずは肉眼では体験できない設定にしてみな。まずは1000分の1とか8分の1とかシャッタースピードでいろいろ撮ってみろ。雑踏の美人を8分の1で追いかけたら、周りの景色はみんな流れ潰れて、この世にはその人しかいないんじゃないかって絵になる。その人がレンズを見ていたとしたら…こっちが目を逸らしたくなるくらい強烈なものになるだろ」
「たしかに肉眼じゃあそこまで対象をを際立たせることはできてないですね」
「まずはそれでカメラに頑張って貰えばいいんだが、最後は撮り手だ。その瞬間に目玉を書き込むんだ。画竜点睛だ。さっきの雑踏の美女がレンズを向いた時の感情を切り取るんだ。別れ話をされて失意のまま駅に向かうその人の、“これ以上私を逆撫でないで”って心の声をな」
そう言う師匠の眼差しは遥か遠くを向いていた。きっと心の声は彼方から連れ戻してくるものなんだなと腑に落ちた。

第76夜 天賦礼讃

 股関節の持病はおんぶ紐のせい、そんなことを言う人もいるけど、親のせいにはしたくない。その頃はきっと蝕まれようとする股関節より母の温かい背中にいることの方が優先だったはずだから。おんぶ紐とは背負う者が手仕事をしていることを意味する。そうでなければいつも赤ん坊の顔を見ていられるよう前紐にするのが親心だから。母は畑仕事が日課だった。一輪車に鍬やら肥料やらを積んで少し離れた畑へ通う。私はその背中で無防備に大の字で背中に張り付き続ける。数時間はその体勢は変わらない。いつしかガニ股が刷り込まれることになっていったのだ。
 私の股関節は50年間のいびつなバランスの中で軟骨が擦り減り,骨同士がぶつかりだし痛さで歩くのもままならなくなった。ついこの間まで出来ていたスポーツはもちろん、小走りや階段の駆け上がりどころか水たまりを飛び越すこともできない。肝細胞治療という望みの綱も効果なく、関節置換手術で痛みから解放された。しかし、親からもらった身体の一部を取り去るには覚悟が要った。全身麻酔の直前母親に謝り続け,目が覚めると新たな自分が動き出した。
 痛みで立ち止まりを繰り返した駅からの帰路も、記憶から消え去ろうとしている。おそらくあんな絶望の日々があったからこそ、今の有り難さがわかるのだ。そして同じ痛みをまさに今引きずりながら街を行き交う人が見えてくるのだ。痛そうな人はすぐに目に入ってくる。階段の人混みに痛みを堪え、それでも懸命に流れについていく人が見える。だがそれは見える人にしか見えないのだ。いや見ようとする人にしか見えないと言える。この見えるという優位性により、同じ痛みを持つ他者だけでなく自分の奢りまでもが見えることで自堕落から踏み止まることができる。
 堕落とは独善。不具なき自身の眼前にはまっ平らな道が続き、揺らぐことなく歩むことを当然とする独善。いっこうにその未成熟に気づくことなく、挙句の果てに独善者たちで群れを成す地獄。決してそこに足を踏み入れることなく周囲を見渡す、幼き日の温かい背中を思いながら。

第77夜 野良亀再会

 おお〜、まだ元気でいたのか! いつぶりだろう、少なくともコロナの間は私が冬眠してたようなもんだからチャンスも減っていたけどなぁ。その大きな体は変わらずだな。そしてその太い首も。何より道路を我が物顔で歩む姿は鎌倉一の存在感だわ。
 ところでもう少し急いだらどうだ? 2歩、というより8歩というのか、動くたびに首を伸ばしてあたりを伺うの繰り返し。ここは山の方から車やらバイクやら、さらに坂の勢いのまま行けるところまで行こうとする自転車やらがどんどん来るから気をつけなよ。その昔は上の方に住む文豪もそうやって自転車で駆け下りてたって読んだことあるな。帰りは登りで苦労する分、往きくらいは楽をしたいんだな。
 それにしても、お前はこれまで何年生きているんだ? そしてこの先いつまでそうして辺りを伺い続けることができるんだ? 万年の間、首を伸ばして伺い続けたら、きっと景色は大違いだろうな。先月派手に伐採されたあのランドマークだった大木も所詮数十年くらいなもんだろが、あんなに高いところから鎌倉を見渡してても見守っていた奴に切られちまうんだからやってられねえだろうな。だからお前さんもせいぜい踏まれないようにして長生きしてくれよな。
 そこからは見えないかもしれないが、あっちの方の街じゃあ外国からの人がわんさか歩いているんだ。東京から近い古都だから日中歩き回っても、夜には東京に戻っちまう。だからこうして静かな朝が保たれているんだろうな。お前なんかが彼らに見つかっちまったら、ワオ!って躊躇なく持ち上げられて記念撮影され続けるのがオチだな。なにしろ彼らは異国の珍しいものを探して回っている観光客なんだから。
 ところで街にはお前みたいな人間が沢山いるんだ。リュックを背負ってるんだけど、お前みたいに体の一部じゃないから背中から異常に出っ張ってて邪魔なんだ。そのでっぱりを忘れてるもんだから急に体の向きを変えると危ないったらありゃしない。混んだ電車でも人間亀はもう一人分くらいの場所を背側で占拠するんだ。乗車賃二人分払えって言いたいよ。
 おお、そっちに行けば轢かれることもなさそうだ気をつけてな。せいぜい残る千年万年をゆっくり暮らしてくれ。まあそれまで地球があればの話だがな。

第78夜 ニ千年の祈り

 衣張山を一陣の風が抜けていく。遠景にも目につく常緑の大木がその枝をわずかに揺らす。大木とはいえそこに立つのは数百年だろうが、その年月は隔世を味わうに十分すぎる。 
 確かに秩序は必要だった。天変地異への畏怖は蜘蛛の子を散らすより結集するほうが賢かった。手を繋ぐように寄り添い、ただ一つの偶像を崇拝することを疑わず、手を取り合い耕し産み静めた。しかしいつしか秩序は統率下となり、持つもの持たざる者、立場の差が生まれた。持たざる者は不満という大きな枷を莫大に所持し、持つ者は知足という安らぎを喪失し続けることになる。結果はそのプラスマイナスを埋め合うための戦いとなり、物質も希望も焼き尽くされていった。
 ニ千年以上の時が過ぎ、秩序は手のひらのスレート1枚の中に統合され続ける。それに触れることであらゆる欲は鎮まっていき、あらゆる闇はトーチに照らされるように炙り出され、望むと望まずに関係なく見知らぬ他者と繋がっていく。思考の前に回答が現れ、行動の前に衝動が薄化していく。あっけないかのような関係はそれで十分であり、触れることもなくして契約が締結される。
 科学が闇や畏怖を次々とダストボックスに入れていきながらも、錆朽ちた偶像は鎮座し続け、人々は信仰し続ける。天の災いは祟りではなく気象異常や衛生障害、身体の病はこれまた機能障害でしかないのに。解明が加速し闇が照らされていくことで、残る闇探しが加熱する。闇は妄想を呼ぶ。憶測、捏造、風評、生贄…、これらが蔓延る場所に信仰は纏わり付くが、トーチが照らせば即覚醒する。そうして偶像依存は消滅し、手のひらのスレートへシフトする。
 尾根の大木は枝葉のそよぎを止め静止画のような姿でいるが、それでも充分に実直なのはそこに言葉や闇はなく、ひたすら在り続ける潔さゆえ。説かず導かず示さず排せず、淡々と立ち続けるゆえなのだ。

第79夜 ビジュウの美醜

磨かずして石は輝せず
土くれ見落とされ
煌めきは奥底に潜み
鼓動を繰り返す

綺麗を備る汚濁
醜中の美
卑しくも尊い
無垢の絢爛

数多のビジュウの
幾多の色彩が
微動だにせず
御堂にて昏昏とす

眩き滑らかな
艶しく古雅な
その在処こそ
眼前の俗野なり

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