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発言の通りの心情とは限らない

基本的に人間というものは、嘘をつく生き物だと思う。

友達の作ってくれた料理が嫌いな食材の料理でも「うまい」と言うし、全然いらないモノをプレゼントで貰ってもありがとうございますと言う。

その言葉を受けて、あぁ喜んでもらえたんだと思ってしまった方は、後日またプレゼントをあげたり、この料理好きだったよね?という事になってしまうかもしれない。

人間生きていれば、相手の気を損ねないように、いろいろ気を遣うものである。気遣いのレベルは人によって違うと思うが、ある程度相手の言動を尊重するという意味でも、気を遣うのはある種のマナーではある。

もちろん気を遣ったことで、自分が窮地に立たされる事もあるだろうが、多くの場合は良い人間関係を築くためのスキルだと思う。

この場合、言い方が悪いが相手を騙していることになる。ただ、もちろん良心からなので、悪いことではないと思うが、これが永遠に続くと、作り損の人ともらい損の人で、誰も得する人がいない状況になる。

仕方のない事かもしれないが、無駄な消費を避けたり、エコな時代だと、人間のメンタルもエコにした方がいいかもしれない。

なんとなく人間は、「あの人がこう言ってたよ。」という噂が回ると、その言葉通りの心情で、その人が発言したんだと思ってしまう。

メッセージアプリなどが一般的になり、膨大な情報量を浴びている私達からすると、いちいちそれが真実か嘘かなどを判別するのも、知らず知らずのうちにストレスになってはいる。

もちろん信頼できる所から情報を得るというのは大事だが、どうも身近な友達が、こういうこと言ってたよ。などと言われると、なんとなく信じてしまうものである。

相手が本気で言っているのか、テキトーな社交辞令かは、なかなか見分けるのは難しい。

それがまだ自分が目の前で聞いた発言であれば、判断がつくかもしれないが、活字であったり、へんな噂であったりすると、本人の発言であるというだけで、本人が言葉通りの心情で発言をしたとの信憑性がかなり高まってしまう。

よく、警察が自白を求めて、ほぼ容疑者を監禁状態にしてメンタルを弱らせるような手法が問題になったりするが、それと逆に、とある事件に「私がやりました!」と名乗りでても、「そうか、君が犯人か。」とすぐ逮捕されるわけではない。本当にその事件の犯人なのか調べなければいけない。つまり本人の言葉だからといって、発言内容が事実かは信用はしないというのがスタンダードではある。

身近な例では、ギャグで笑わせるつもりで友達同士で失礼なことを言っても、数日経って別の所で、アイツはこんな失礼なことを言ってたぞ、と言われてしまうと、それはもうギャグでは無くなってしまう場合がある。

悪い評判というのはずっと回り続けるもので、一回ブラック企業の認定が出た企業は何年たってもブラック企業のイメージが定着してしまうし、そういう噂が出たことを反省して社内の仕組みを変えて色々改善しました!と発表されていても、まだガチのブラック企業だったりするところもある。

そういうものを評判と呼ぶのだろうが、現代では評判がかなり重視されるような世の中になりつつある。

情報量が莫大に増えているので、良い評判も悪い評判も時間をかけずに、すぐに回るようになってしまった。

ツイッターやインスタグラムをビジネスで使っている人は別として、自己顕示欲を満たすものに使っている人が多い世の中であるし、評判が良いことは当事者にかなりいい恩恵をもたらすことは間違いない。

「匂わせ」という手法も話題になるほど、本件で取り扱っている内容でない裏のメッセージを伝えるような自己主張をする人もいるらしく、もはや言葉や画像も加工ができる昨今であれば、証拠写真や証言などという言葉は死語になるかもしれない。

芸能人の年収の推定などは、何に関係しているのかわからない、テレビ関係者と名乗る人が書いていたりするし、本人の名前を出してなかったとしても、明らかに本人を特定できるような情報源を出して、評判を落とすようなネット記事は普通に散見されるような世の中になっている。

本人の発言などの真実以上に、ネットのデマ情報の方が大衆の信頼を得ている、謎の逆転現象が起こることも珍しくなく、もうこの世の中に真実も嘘も何も存在しないんじゃないかと思ってしまうほどではある。

自分の評判を上げるために平気で嘘をつくのはもう、一種の文化というか、盛れるだけ盛るのは嘘ではなく普通の感覚ではある。

求職者が履歴書に嘘を書くことが普通になり、面接官も嘘をついているんだろうな、という前提で話を聞いていたり、そうなると面接がなんか嘘を見破るための儀式というか、本来の目的から離れてしまう。

日常生活は面接ほど真剣なコミュニケーションをしているわけではないし、そんな仲良くない人に対して、全て真実で固めたコミュニケーションを取るのも何か違う気はする。

真実というのは大して面白くないし、旅行に行ったとしても、写真がピークで行ったら興ざめというパターンは珍しく無い。

かといって、真実が面白く無いからという理由で嘘をついて良いわけではない。友達に嘘をつくくらいの小規模なものなら、当事者間だけの問題だが、それがネットに乗ってしまったりすると、一気に猛スピードで嘘が拡散して、損を被る人がかなり出てしまうパターンもある。

人間なら自分や他人を守るために嘘をつくと思う。ただ、金儲けのために嘘をついたり、面白半分で嘘をつくと、なかなか取り返しのつかない時代にはなりつつある。

本人の言葉が本当かどうか確かめるすべはない。改めて考えると当然のことではあるが、人間は他人の心理を絶対に確かめることは出来ない。相当のメンタリストであったとしても、当事者の行動を予測できたとしても、やはり心理を完全に読むことは難しい。

不確かな言葉で人の評判を落とすのは良くないし、自分が有利になる世界になるように、他人の言葉を先導するのも良くない。

それならば、嘘で塗り固めても誰も傷つけないで、むしろ人に恩恵をもたらすのであればいいのだろうか。

例えば何かの資格を持っていないのに、資格を持っていると嘘をついてその仕事に従事する。腕は完璧で、資格を持っている人と何ら変わらない。むしろ資格を持っている人より優秀だとする。無免許の医者で人を救ったりするのは、誰も傷つけていなければ人助けにはならないだろうか。

医者だと人の命を扱うので、かなり責任重大な気がしてしまうが、例えば何かしらの経営コンサルなどの資格を持っていないとしても、経営についての知見があれば、別に仕事を続けて問題ない気はする。

もちろん仕事を得るために嘘をついて、その嘘が無ければ現職に就けていないわけだが、実力勝負の世界で戦える実力があるとすれば、それはその実力を認めてあげても良い気はする。

空手や柔道の世界大会で、賄賂のおかげで出場した選手がいたとしても、実力のない選手が試合をやったらボロ負けするのが普通だと思う。だが、そこで賄賂無く勝ち進める選手がいたとしたら、その選手は強い選手であることには違いない。

例え嘘で塗り固められていたとしても、誰も傷つかずに、嘘がバレなければそういう世界も良いのかもしれない。むしろそういう世界になりつつあると思う。

オレオレ詐欺に引っかからないと思っている人ほど引っかかるように、嘘にまみれた世界で、本物に気づけなかった自分の実力が甘かったんだなと思うことが最近増えたような気がするし、これからも増えると思う。



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