碧梧桐の三千里を追え!〜北関東編〜

いま、有志で碧梧桐の三千里の旅路をGoogleマップのマイマップに落とし込む作業をしています。

みなさまにマッピングしていただいたのを、探訪舎メンバーでチェックしています。
調べていくうちに、ほ〜面白いわねという発見があったところを覚えている限りメモしていきます。

引用は全て以下からです。

  • 河東碧梧桐著『三千里 上』講談社学術文庫、平成元(1989)年8月 

この記事は、千葉編の続きです!


西施岡(茨城県)

 九月三日。晴。
 腹も全快したので大いに食う。主人が驚く。
 西施岡に上る。霞が浦の眺望の平面的な処へ、筑波連山の凸起が出来る。天高風景澈陵岑聳逸峰の趣じゃ。

天高風景澈陵岑聳逸峰……三千里の中の碧梧桐の癖(?)で、山とか岩などがごつごつした物凄い感じの風景を、漢字の並びであらわしたりします。
これはそのシリーズの中で一番最初にぶっ放した、てんこうふうけいきょくりょうしんしょういっぽう。漢字が10も並ぶと連山という感じがします。

それはそうと西施岡はどこか、です。せいしおかと碧梧桐は呼んでいます。ここが、Google検索しても出てこない。
ググって出てこないときは、NDLで検索です。すると、以下の記載を発見。

西施岡は、どうやら勢至岡という字を宛てることもあるようです。
今度は勢至岡でググってみると、こちらの個人サイトを発見。

これを読んだところ、勢至岡に二十三夜尊がある?
二十三夜尊の社殿には勢至菩薩が祀られていることから、一帯の高台が勢至岡と呼ばれたそう。

二十三夜尊はGoogleマップにありましたので、こちらにマッピングしました。


大間々駅(群馬県)

 九月十二日。大雨。
(略)
 平からは汽車、急転直下ではない徐転平下、友部で三時間、小山で二時間を待ち暮して夜九時ここに着いた。雨はドシャ降りである。(上野大間々にて)

 九月十三日。雨。
 午前八時。脚絆に下駄穿きで停車場前の宿を出る。草鞋は腰につけた。縮緬の兵児帯に草靴だと宿の女が笑う。雨は強雨の程度に降る。
 同九時。大間々着。茣蓙を買い、草鞋に穿きかえた。始めて茣蓙を着るのである。町外れで車に乗る。 花輪まで六十銭の約束。

9月12日朝の時点では福島県の閼伽井岳の常福寺にいた碧梧桐ですが、大雨の中ドロドロになりながら下山、汽車に乗って友部駅(茨城県)小山駅(栃木県)と過ぎて大間々(群馬県)に到着します。福島から北関東横断という大移動です。

さてこの文章を読むと、9月12日夜に大間々に到着していますが、次の日の9月13日の朝9時に大間々着とあり、なぜか大間々に2回到着しています。
こちら、このマッピング作業でチェック必須の、「その駅は明治39年時点で開業しているか?」を調べたところ、判明しました。

駅の開業年はWikipediaが一番わかりやすいです。
大間々駅のページを見ると……

1911年(明治44年)4月15日:足尾鉄道の大間々町駅として開業。
1912年(大正元年)12月1日:大間々駅に改称。

なんと、明治39年時点で大間々駅がないようです。
ところが、この記載の上部に気になる文章を発見。

開業当時は大間々町停車場と称した。足尾鉄道の開業に先立ち、大間々町南方の阿左美村字岩宿に両毛鉄道の大間々駅が設置されていたためである。大間々駅が所在地名である岩宿駅に改められた後、大間々町駅は現在の名称である大間々駅に改称された。

……大間々駅が2つあった?
現在の大間々駅が明治44年にできた時にはすでに、別のところに大間々駅があったようです。その別の所というのが、今の岩宿駅。
岩宿駅のWikipediaも見てみます。

開業当時は大間々駅(おおままえき)と称した。駅の設置された場所は新田郡笠懸村であり、山田郡大間々町からは30町ほど離れていた。これを疑問に思った村民に対して両毛鉄道の社長である田口卯吉からの回答書が残されている。

それによると、計画当初は大間々南方に設置予定であったが、実際は位置がさらに南方になってしまった。駅名は「大間々」で許可されており、今さら変更できない。また大間々の方が都会で知名度があり、それに他でもそのような例があるので事情を酌んでほしいと弁解し、了承を求めている。その後1911年(明治44年)4月に足尾鉄道(現・わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が開業した際、線内に大間々町駅が設置され、当駅はその翌月に現駅名へ改称された。

明治22年に開業した岩宿のほう、両毛鉄道の大間々駅は、いろんな大人の事情で大間々という地域から離れたところにできてしまった。さすがに地域住民からの反発もあったが、大間々のが知名度があるから…等の理由で明治44年までそのまま。
この年に足尾鉄道の大間々駅がちゃんと大間々という地域で誕生したため、両毛鉄道のほうは岩宿駅と改称……、という経緯だそうです。

つまり、明治39年9月12日夜の碧梧桐は、電車移動だったため恐らく両毛鉄道の大間々駅(現岩宿駅)に到着。
9月13日朝8時に「停車場前の宿を出」ているので、大間々駅(現岩宿駅)近くで宿を取ったのでしょう。
そしてそこから歩いて、大間々という地域に到着。岩宿より大間々のが都会でお店もあったのか、茣蓙を買っています。


馬返しの力餅屋(栃木県)

 九月二十五日。曇。
 ゆうべは桂株が我等を馬返しに迎えて、そこの力餅屋に泊ることにした。こちらへというて階子段を上る。二階のあることも始めて知った。奥の八畳の間は一間床違い棚つきで、大姿見が立て掛けてある。畳は備後表の替え立てでシャリシャリする。風呂はというとお三人御一所にとよどまず答える。成程檜の厚板がプンプン匂う構えじゃ。酒はキリンビールをぬく。鰌の骨抜きに次いで、松茸の蒸したのを出す。陶然として三人酔い倒れると、蒲団を次の間に延べる。よく見ると上も下も節糸のお蚕ぐるみであった。これで馬返しの力餅屋に寝ておるのである、と忘れたことを思い出すように繰返しながら枕をした。

なんだかとてもウキウキした文章。
馬返しの力餅屋……。なんで店名書いてくれないんだ、"皆さんご存じの"のような書き振りで……と思いつつ、つまりそれくらいこのお店は有名だったということ?
NDLで「日光 馬返し 力餅」で検索すると、明治42年の日光ガイドブックを発見。

日光馬返し つたや
弊店には日光名物に其の名を得たる弊店自慢の力餅あり召しあかつていらつしやい

ここだー!つたやさんというお店のようです。
同じ本の違うページには、以下の記載もありました。

三、馬返
往時登山するもの乗馬を此處より返したりと云ふ日光より約二里、戸数七八軒多くは耕樵を事とす、只茶店一軒あり、蔦屋と云ひ、中宮祠往還の休泊を独占す、徒歩の人は休憩所選択の自由を有すれども従来車籠の客は往復必ず此處に休まざる可からざる習慣なるが如し其時間十分乃至二十分尤も徒歩の人と雖も或は一杯の水と一盆の力餅の爲めに引かれて思はず刻を移すことなしとせず。中宮祠まで一坂路あれば力餅にて腹をこしらゆるも妙なり。

適当に新字に直し、太文字にしています

中宮祠とは、中禅寺湖の北岸にある二荒山神社のこと。
日光中心部から中禅寺湖のあたりを観光する際に「馬返し」という地区は必ず通るところで、ここには休憩所がこの「つたや(蔦屋)」しかない……、ということで、碧梧桐が泊まることになった力餅屋は十中八九つたやさんでしょう。

誰もが立ち寄るチェックポイントだったようで、温泉の紀行文を多く残す田山花袋ももちろん来ているみたいですし、明治天皇も行幸の際に立ち寄っておられるとのこと。

そんなつたやさんの場所は具体的にどこかと調べると、個人ブログを発見。

つたやという名前を残しつつうどん屋になったようですが、廃墟になっていますね……。Googleストリートビューでこの場所を探してみると、建物をぶち抜いて木が生い茂っていました(2023年8月)。

Googleストリートビューでは過去の画像も見られます。2014年が一番古かったですが、この時点ですでに廃業していたようです。

別の個人サイトも発見。
こちらによると、1998年時点ではお店はありそうで、さっきのブログに載っていたつたやさんの特徴的な茅葺屋根も残っています。1998年から2014年の7年の間で廃業してしまったのでしょうか。


続く……


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