見出し画像

碧梧桐の三千里を追え!〜千葉編〜

いま、有志で碧梧桐の三千里の旅路をGoogleマップのマイマップに落とし込む作業をしています。

みなさまにマッピングしていただいたのを、探訪舎メンバーでチェックしています。
調べていくうちに、ほ〜面白いわねという発見があったところを覚えている限りメモしていきます。

引用は全て以下からです。

  • 河東碧梧桐著『三千里 上』講談社学術文庫、平成元(1989)年8月


汐見の臥竜松(千葉県館山市)

八月十一日。晴。
 午前七時、洲崎廻りを志して館山を出た。唐黍の中道を一里ばかり来ると、汐見の臥竜松というのがある。地を這うようにくねった古い松で、墓原の側にある。頼朝が植えたのであるそうなという外何の由来も伝わらぬ。

単純に「汐見の臥竜松」で検索しても全然ヒットしない。

↓安房郡札三十三観音霊場(辰歳観音)の三十番 に「松の堂 館山市塩見220」がある。汐見地区のお寺はよっぽどココなのではないか、と想定。しかしこの住所で検索されるところにお寺が無い……。


↓地図を発見、松の堂がある!

https://tateyamacity.com/pdf/w_map/a11_kouyatsu.pdf


↓とある個人ブログに、松の堂や臥竜松の看板の写真が掲載されている。


ブログで松の堂の外観が判明したため、Googleマップのストリートビューで探し、場所判明!


小学校の上の宿

八月十一日。晴。
(略)
 宿の下の小学校で鳴らすオルガンを聞きながら、青天井の下で五右衛門風呂につかった。伊豆の大島は万里の蒼波を隔てて蛾眉を画いておる。(安房相の浜にて)


これは三千里を読んでいた友人から教えてもらった。
三千里ではこの、オルガンが聞こえるくらい小学校がすぐ近くにある宿の名前は書かれていないが、この「富崎館食堂&キャンプ場」の前身である「富崎館」が明治時代から続いていた小さな民宿であり、さらにそのすぐそばにある「富崎小学校」は明治39年の時点で存在していたため(しかし平成29年に閉校……)、恐らく宿はココ。

富崎館食堂&キャンプ場について↓

https://www.tomisakikan.net/

富崎小学校について↓


ちなみにこの富崎からほど近くに布良(めら)という地区があり、碧梧桐が明治39年に訪れた2年前、明治37年に青木繁がこの場所に訪れ、「海の幸」を描いた。
碧梧桐が海岸を歩きながら見た景色は、この「海の幸」のようだったのではないかと思ったり……。


波太島

八月十三日。晴。
(略)
波太島は七騎落ちの時、頼朝が舟を寄せたというので、史上の一奇跡になっておる。渡舟に貸して渡る。島主は仁右衛門で通っておる。(略)当主の仁右衛門は不在、隠居の仁右衛門と会談もしたが、何となく奥行きのあるしっとりした顔であった。島中頼朝のかくれたという岩窟も現存しておる。岩石を四角に掘った生簀があって、それに鯛、海老、鮑などを生けており、昔の砲台の跡には兎を飼うておった。廻りが十四五町にも足らぬ小さな島ながら、この辺の豪家の一に数えらるる島主でおるのは面白い、と思いながら島を出た。予を案内した漁師が、汐につかっておる仁右衛門の子供に、坊ちゃまといいながら、礼の厚い辞儀をしていた。

こちらも、単純に「波太島」と検索してもヒットしない。
そこで碧梧桐が直前に訪れた「太海(波太)」という地域をマップ見てみると、太海港から一番近い島が「仁右衛門島」とある。
碧梧桐はこの島について「島主は仁右衛門で通っておる。」と言及しており、波太島はいつのまにか島主である仁右衛門の名を取るようになった?


仁右衛門島のサイトを見ると、碧梧桐が言及していた「頼朝のかくれたという岩窟」が今もあることがわかる。


鯛の浦

八月十五日。晴。
 鯛の浦は誕生寺の縁起に因んだ処で、小湊の小湾を外海に出た浪の荒い処であるが、鯛が放飼してあるように数知れず集っておる。鰹釣りの戻りなど残った餌は誰もこの鯛に投げてやるのが漁師の信心であるという。小舟で出て見たが、浪の底のどこからということなく紅鱗赤鰭が、日のさす浪に輝いて見えた。船頭が、旦那は信心がようございますというた。信心がわるいと、鯛の浮かぬこともあるらしい。

どうやらまだあるというか、現在もかなりアツい観光スポットであることを知る。ホームページを見たら英語翻訳機能が付いていたので、インバウンド客も来ているっぽい。
碧梧桐の文章には「信心」という単語が頻出しているが、現在も「神秘の鯛が現れたら幸運が訪れるスピリチュアルクルーズ」として紹介していて、なんというか100年前とスタンスが変わってなくて面白い。


成東鉱泉

八月十八日。晴。
(略)
 片貝から二里の道は、風のない蒸暑の堪うべからざる無趣味の街道であった。東金に着いてようやく車を命じ、この地の名勝八鶴湖を瞥見して、すぐ成東鉱泉に宿った。この日の行程徒歩九里車程二里に余った。(上総成東にて)

明治34年創業、ラジウム鉱泉が人気の温泉旅館で、文士も多く泊まったが、昭和5年にお家騒動で廃業。今は碑や井戸が残っているそう。
碧梧桐と同じく子規のもとにいた歌人の伊藤左千夫がここ成東の出身で、彼の歌碑が建っている。
宿ができる前にこの場所に元々あった浪切不動院は現存。


続く……

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?