エッセイ 世界を正確に見るための夢【映画「アステロイド・シティ」感想文・ネタバレあり】
ウェス・アンダーソン監督の映画「アステロイド・シティ」を観に行った。名古屋にある伏見ミリオン座というところで、いろんな映画に関するイベントもやっている。応援したい映画館なのだけれど、このところ随分行っていなかった。久しぶりに来て、それだけで嬉しい。
作品は1950年代のアメリカの架空の田舎町と、同時代の演劇界を舞台にしている。劇場ポスターをよく見ると集合写真に白黒の人物が混じっている。この作品が劇中劇であることは作品の冒頭に開示されるので特に秘密ではない。一目見てウェス・アンダーソンだなとわかる色合いの、フルカラーの部分が「アステロイド・シティ」という舞台の世界で、白黒の人物達はその制作陣である。ポスターと同じように劇中劇ではあるものの、『中劇』の部分が上映時間の圧倒的大半を占める。
どちらが夢でどちらが現実なのだろう。クリアな太陽光のもとで繰り広げられるお菓子みたいにカラフルな「アステロイド・シティ」の世界はちょっといかれているように見える。毎日のように核ミサイルの実験が行われていたり、自動販売機で砂漠の土地が切り売りされていたり、UFOで宇宙人がやってきたり。
ふと、昔何かの本で月の土地を切り売る商売のことを読んだのを思い出す。確かアポロが月面着陸を果たした頃の話だったはずだ。小説ではなく、実話である。もちろん、そこに家を建てたりして、実際に使うわけではない。あなたの土地はこれこれこうですよ、という証書がもらえるだけのシステムであったように思う。
ウェス・アンダーソンの前作「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」を見た時、これは何かのモデルがあるのかなと漠然と思った。フランスの文化に詳しくなくてあまりわからなかった。あとで雑誌などの映画の特集記事で確認してようや分かったくらいだ。とはいうものの、知っていたのは「ザ・ニューヨーカー」の雑誌本体だけで、他のモデルについてはぴんとこず、映画にどのように反映しているのかもわからないままだった。
今度の映画は『モデルがいる』ということが前作よりもわかりにくい。少なくとも私にはそう。あとで劇場パンフレットを見て納得した。フレンチ・ディスパッチの時よりも知っている名前が多いからだ。ジェームズ・ディーンや、マリリン・モンローなら1950年代のアメリカの人物としてひととおりは見知っている。
映画の中の「現実」は白黒である。なんだかおかしな話だけれど。この映画の劇中劇は「中劇」がカラーで、「劇」がモノクロ。例えば三谷幸喜のザ・マジックアワーは映画を作る人たちがカラーで、映画そのものは白黒で表現されていた。たぶん、映画を見る私たちはカラー部分を「現実(本物といってもいい)」、白黒部分を「虚構」と無意識にうけとるんじゃないだろうか。
ただ、1950年代に関しては少し複雑で、私たちの知っている(少なくとも私のしっている)1950年代は大半が白黒だったりする。理由は単純で、この時代のフィルムが白黒だから。1950年の歴史は白黒の中に閉じ込められていて、モノクロ画面に映像が変わると、ああ、これは歴史映像なんだな、と思う。最初は白黒の映像が流れて、それがカラーに変わる、みたいな演出がこの時代をモデルにした映画には多いように思う。今目の前にあの時代を蘇らせますよ、というような効果を狙っているのだろう。
「アステロイド・シティ」の現実はどちらだろう。映画の冒頭で司会者が「『アステロイド・シティ』は存在しません。登場するのは架空の人物であり、ここで起こる出来事はつくられたものです」とはっきり述べているように、映画の文脈上の現実世界は白黒の舞台制作者側の物語だ。しかし司会者はさらにこうも続けている。「しかしながら、これらは現代の舞台劇制作の内幕を如実に表しているのです」
私たち観客の共感はフルカラーの「アステロイド・シティ」の登場人物たちの中にある。時折はさまれる舞台制作陣達の物語は物語を分断する謎のシーンですらある(とりわけアメリカンカルチャーに明るくない自分には)。そこで起こること(核実験、驚きの発明、宇宙人騒ぎ、カウボーイやいろいろ)は実は本当にアメリカでちょっと起こっていたことだ。確かにかなりデフォルメされてはいるが、それは一種の現実だと思う。私たちは何かをデフォルメなしに記憶したり把握したりはできない。個人間の差はあるだろうが、省略は強調はしょっちゅう起こる。すべてのフィクションはその延長線上にある、つまり世界をよりよく知り、理解するための手段だ。私はそう思っている。
「眠らなければ、目覚められない!」
物語後半で何度も叫ばれる言葉はその現れのように思う。現実を理解するためには質の良いフィクション、夢が必要だ。ウェスアンダーソンの映画は美しい夢だと思う。美しくて、本当の。