3月30日:庄子先生とお話していて感じたこと。
おはようございます。
昨日一日、バタバタ仕事してさり気なく更新が遅れているへいなかです。
もう既に31日の午前9時ですが、昨日の分を書いておきたいと思います。
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昨日(30日)、放デイでコロナ休業からの再開時期を検討するべく情報収集や連携に精を出し、夕方からスタッフのお悩み相談に乗りつつ…
20時からはYoutubeライブでトークセッションでした。
よくわかってませんが、ライブ配信後、1日限定公開らしいので、たぶんもう見れなくなっているのだと思いますが、非常に楽しかった。勉強になったし、何より現場で20年近く教壇に立ち続けている人の凄みを感じました。
庄子先生は小学校の先生。現場で教壇に立ちながら道徳の教科書作成委員会にも長年携わってらっしゃる。
オンラインの教育系イベントや時折流れてくる教育系雑誌の紹介などでお見かけしたことはあったのですが、今回が完全に初対面。
SNSでのつながりはなく、メッセージどころか互いの投稿に反応することすらないまま当日を迎えました。20時から本番で、その10分前に配信ツールの中で「はじめまして」をして、ろくに自己紹介もしないまま本番を迎えた。
台本なし。
打ち合わせなし。
筋書きもなく「目安30分」という縛りと「道徳〜思いやりについて」というざっくりしたテーマで話し合った。
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話は案の定多岐に渡りました。
少年院と小学校…それぞれの立場・経験に基づきながら1つひとつ掘り下げて、あっという間の30分。
日頃から考えてきたことをそのまま話すだけだけど、これほどきれいに共感や理解が循環する対話というのはそうそうない気がする。
庄子先生はしきりと僕の話の聴き方などを喜んでくださったけれど、そのフィードバックの返し方も含めて、小学生の学びを促進すべく多角的にフィードバックを繰り返す小学校教諭の地力の高さがにじみ出ていた。
学校で授業を行う時も、きっとこのスタンスを崩さないのだろうと思う。きちんと子どもの言葉を聴き、それを起点に次の話を展開していく。指導案ありき、こちらの思惑ありきではなく、あくまでも子どもの言葉を起点にする柔軟性と度量…
コミュニケーションのうまい人というのはこういう人のことを言うのだろうと思う。
相手の言葉だけでなく、その表情やリアクションにもきちんとアンテナを張り、言葉以外の情報もたくさんたくさん受け取って、それを肯定的に相手に返す。
庄子先生の授業はきっと、僕とは全然空気が違う。
もちろんいろんなバリエーションはあるだろうが、きっとあまり言葉数を使わずに「問いかける⇨聴く・見る・感じる⇨語る+さらなる問い」という流れ。
下手な先生は聴く・見る・感じるができない。
こちらの意図した言葉が出てきているかどうかにばかり意識を持っていかれて、子どもの言葉を聴いていない。聴いていても感じていない。
庄子先生のコミュニケーションは「耳で見て、目で聴く」という感じだった。常に言葉とそれ以外を同時に受け取ろうとしている。こういう人を聴きというのだ。
僕の授業は基本的に僕が話すことが多い。少年院という場所の特性もあるのだと思うけれど…それは最近の中高生向けの特別授業などでも同じだ。
そこに対して子どもたちの心の中で起きるであろう変化を予測して、子どもたちが言語化する前にこちらで拾い上げる。
自分たちの胸のうちにある波やざわつきが、僕の言葉を介して共有され、いつのまにか自己理解と共通認識を生み出していく…
僕の授業はそんな感じ。流れるプールと波のプールを、僕が中心で生み出してる。
そのやり方に是非も賛否もあるだろう。
ただ…
少なくとも僕は、それで退屈させないように語り口を工夫してきたし、ジェットコースターのように感情の起伏を作るよう試行錯誤してきた。
そんなちょっと異端なスタイルの僕にとって、道徳や思いやりに関する考え方の深い部分で共鳴しながら、庄子先生の教員としての圧倒的な技量を体感できた昨日のセッションは本当に豊かな時間だった。
日本には、凄い先生がたくさんいる。
庄子先生、ありがとうございました。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。