8月25日:「怒るのではなく叱る」を考えてみる。
おはようございます。
車を運転中にTwitterのネタを思いつくことが多いのですが…かなりの高確率で停車までの間に忘れてしまう安部です。
自分でも不思議なほどキレイに忘れるので、かろうじてキーワードだけメモしてても、翌日にはその意味すら忘れてることがあります。
今日は、そんな中でもここ数日繰り返し考えてみたことをまとめてみます。
1)「怒るのではなく叱る」とは
教育に携わる者ならば一度は耳にしたことのある言葉。
要するに…
感情的に説教するのではなく理性的に諭す
ということだと僕は理解している。
諭すことはもちろん大事だ。不適切な行動に対する指導の根幹はそこにあると僕も思う。感情的に説教することが、多くの場合大人の望む結果(行動の変容)につながらないことも事実だ。
ではなぜそんなことが標語のように広まったかというと…感情的に説教する人があらゆる教育現場で数多く見られたからだろうと思う。
要するに…
子どもの不適切な行動に対して自分の不愉快さをぶつける狭量な教育者もどきが増えたということ。ヒステリックで子どもを萎縮させるだけの大人が増えたんだ。
SNSの普及によって実数よりも多い印象を与えていることを差し引いても、ある程度事実なはずだ。
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2)「怒る」は絶対悪なのか…
僕はそうは思わない。
喜怒哀楽に代表される人間の感情。
トラブルに発展しやすいものとしてやり玉に挙げられることの多い「怒」だけれど…それは決して不要なものではない。
自身の身を守るため、危機的状況に際してリミッターを外し、非日常的な力を発揮するのに役立つこともある。問題なのは「怒」の感情自体ではなくその表出の仕方だ。
信頼している人が怒っているという状況が、自分の行動の重大さを思い知るきっかけになることも多い。
だから僕は、怒鳴ることもにらむことも、「バカヤロウ!」と一括することも一概には否定しない。それが効果的な場面、それが効果的な関係性というのは必ずある。
大切なのは感情をぶちまけるのではなく、感情も含めてきちんと相手に伝わる形で表現することだ。
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3)厄介者「怒」は不要な感情なのか…
トラブルの多くは怒りを伴う。だから人はつい、喜怒哀楽のうち「怒」の感情を厄介者だと思い、不要品扱いしてしまう。
しかし
そもそも人間の感情にとって「怒」は不要なものではない。本当に不要ならばとっくの昔に進化の過程で消えているはず。残っているのならば不要ではないのだ。
そして
「怒」の感情だけがいびつになることも基本的にない。
怒り方がいびつな人間は、喜も哀も楽も、きっとその基準や表出方法にいびつさがある。
そもそも「普通」なんてものはないのだろうけれど、それでも社会生活において問題になりやすいタイプとそうでないタイプというのは必ずある。
怒り方がいびつな人は、その他の感情においても課題を抱えていることが少なくないと思うのだ。
だから僕は…
アンガーマネジメントで「怒り」だけを取り扱うのは効果的ではないと思っている。
「怒」だけでなく、あらゆる感情を平等に扱い…ただ抑圧するのではなく、マネジメントすること。それを大人の標準スキルとすべきだと僕は思っている。
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4)「怒るのではなく叱る」は本当に適切か
子どもの教育に関わる人の中に、ヒステリックに怒ってしまう人がいるのは事実だ。そういう人には「怒るのではなく叱る」が必要だ。
本人たちに悪意がない以上、そのスローガンだけを何百回繰り返してもヒステリーは治まらないけれど…スキルとして「怒らず叱る」ができるようになることは絶対的に必要だ。
ただ…
まったく逆のケースもあると僕は思っている。
今、この国には…ネグレクトや無関心にさらされて「怒られたことがない」という人も少なくないのだ。そこには「怒るより叱る」が刷り込まれて本当に怒ることをなくした大人たちの影響もある。
感情は自然に身につくものではない。生まれてから、身の回りの大人の様子を見て、その言葉を聴いて感情を表す言葉を知り、その表出方法を身につける。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。