『青いパパイヤの香り』-熟れを愁ふ-【映画鑑賞記録#8】
トラン・アン・ユン監督作品『青いパパイヤの香り』鑑賞。1994年の日本公開に一年先立ちフランスで初公開。監督は出自をベトナムとし、12歳のころにフランスへ移住したそう。作品から漂うパリ風の気品はそうした背景によるものなのだろうか。
人心が紡ぐ繊細な人間関係、洗練された美術が印象的。さらに、目を引くのは異国情緒に富んだベトナムの風情。植物、インテリア、調度品に反映されており、自然と調和した品の良い雰囲気に心が躍る。
奥ゆかしい世界観と同様に、起伏が目立たない穏やかなストーリー展開も特徴的。観る者の心を芯からあたためるような、詩的で愛情に満ちた作品になっている。主演子役の愛くるしさも魅力の一つ。
本作に見出せる静謐で神秘的、かつエキゾチックな雰囲気は、ベトナム的審美眼に依拠したものなのだろうか。もしそうだとすれば、その美的感覚は日本とも共通しているように思う。
主人公は親元を離れサイゴンの屋敷に奉公する10歳の少女ムイ。奉公先の奥方は優しく聡いが、ムイと同い年の実娘を失った過去を持つ。
義母は息子の放蕩癖の原因を嫁に背負わせ「息子を不幸にする悪い嫁だ」と非難する。他方、旧知の老紳士に密かに想いを寄せられている。
一家の幼い次男はムイにやたらと悪戯を仕掛け、彼女を困惑させる。この、 人間味溢れる家族に仕えるムイは、ある日訪れた長男の友人クェンにほのかな恋心を抱いた。
人はいくつになっても恋心を忘れない。年代や性別に関わらず、物事への恋慕や慈しみをその胸に宿す。
"成熟"という言葉が、絶対的な意味を伴って人間を形容することはない。人生を俯瞰して区切られた時期のそれぞれに、相対的な意味としての評価"成熟"が与えられるに過ぎないのだろう。
その仮定のもとでは、われわれは永遠に青いまま、生涯にわたり未熟さのなかを巡り続けると言える。
とはいえ、これは決して悲観的な展望ではない。永遠の未熟さが人々に約束するものも存在する。それは、目新しさへの憧れ、感受性と好奇心の永続性。ひいては、人生を豊かにする情緒。
それから10年が経過して、ムイは麗しく成長した。その一方で屋敷は経営不振に追い詰められており、彼女をクェンのもとで働くように仕向ける。
新しい主人となるクェンは新進気鋭の作曲家として成功を収めており、創作に励む彼の隣には天真爛漫な良家出身の許嫁の姿があった。
日々淡々と使用人の務めを果たすムイだったが、彼女の献身と美しさが、やがてクェンの気持ちに変化をもたらす。
登場人物は多くを語らない。だからこそ、彼らの挙動やささいな会話が、錯綜する想いの存在感を際立たせる。
加えて、すべての人物の言動が若気のいたりとして看過されうる。いくつの年代にもそれぞれの慕情があり、そのもとで紡がれる繊細な世界があるから。
こうした寛容にもたらされる調和の心地よさを、私は愛しく感じる。
坂口安吾は自著『青春論』の冒頭で上のように述べた。
そういえば、安吾も人生を永遠の青春とみなしていたような。その人生観をふと思い出して引用。彼の場合、やや悲観的な想念に基づいた発想のように思えるが。
続いて、このような一節も残していた。
少女から女性への変貌を遂げるムイも、かつての奉公先の奥方も、クェンの婚約者も、みな一様に胸に忍ぶ思いがあるのだろう。そうは言っても、安吾が女性を知らないのと同じように、女性が男性の胸の内を知ることもない。
学生時代にほんの少しだけ触れた著作が、にわかに想起された。青空文庫、青春コンサイス版。
本作は二部にわたる。前半では幼きムイが屋敷で過ごした日々が、後半にはクェンのもとに仕えるムイが、それぞれ描かれている。
一作品の中に描写される過去と未来の情景が、ノスタルジアを呼び起こす。やはり、過去への快い哀愁、郷愁に抱く憧れは万国共通なのだと思わざるをえない。
屋敷を出るムイに、奥方は秘めていた胸中を告白した。「10年間娘のように思っていた」、「お前だけが慰めだった」と。
離別にはいつも寂しさが付きまとう。それでも往時、かつて苦しめられた胸の痛みも切なさも悲しみも、美化された記憶、すなわち"青春"として愛しめる日を迎えるのだろう。
未熟な青いパパイヤは、硬く、みずみずしく、ほのかに甘いという。完熟した黄色い果実は、かつての淡白な味わいに、さらなる甘みと青さへの焦がれをもたらす。
終盤、読み書きを教わったムイが朗読する詩歌。あまりにも美しい。
鑑賞日:2024/1/13