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【鑑賞記録】「善き人のためのソナタ」
数年前から観たいと思っていた作品です。2025年を目前にして、ようやく視聴することができました。嬉しい。
というのも、私は学生時代の卒業論文の研究テーマにミラン・クンデラの長編小説を選びまして、その際に指導教員から、小説の舞台となった時代 (冷戦以降、雪解けまで)における東欧の情勢を少しでも学ばなければいけないよ、と本作「善き人のためのソナタ」のDVDをいただきました(そのほかに、アンジェイ・ワイダの「大理石の男」「灰とダイヤモンド」のDVDも頂戴しました)。
とはいえ、当時も今も私はDVDプレイヤーを所有しておらず、パッケージの方はながいこと本棚の肥やしとなっています。それでも、作品自体はずっと見るつもりで焦がれていました。今になって大学時代の心残りがひとつ解消され、とても清々しいです。卒論執筆中に見ておけばよいものを、、。
さて、本作、原題は「Das Leben der Anderen」、直訳すると、「他人の生活」。当時共産主義政権下にあった東ベルリンを含む東側諸国では、共産党(東ドイツにおいてはドイツ社会主義統一党)からの監視や誘拐が当然のように行われていました。その社会では、プライバシーや私信の秘匿性は消滅し、個人はプロファイリングされ、当局への従順さに則った評価基準による点数付けによって社会的地位が決定されたそうです。
なお、そのようにして、個人の差異が解消された世界は、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』においては「強制収容所」という名称で登場します。中欧の20世紀は、ヒトラーに支配され、やがてスターリンに支配され、その後はスーパーマーケットやマスメディアといった大衆消費社会的な西洋文化に支配され、常に外部のなにものかに蹂躙されています。とはいえ、現代においては、マスメディアやSNS(今ではAIやビックデータも)による全体監視社会の支配権は世界全体に及んでおり、われわれ日本人もその影響下にありますので、状況が改善されたとは言えませんね。ものの良し悪しや理想が外部から与えられるような社会においては、人はどのようにして、自己を満たせばよいのでしょう。
本作では、監視者という権威ある立場から、「他人の生活」に足を踏み入れることによって、かえって転落する男の姿が描かれています。作品の雰囲気は(作中、死人もでますし心穏やかでない描写もありますが)、人の善性に満ちた温かいものとなっています。が、その筋立てのみを概観すると、シニカルな悲劇(もはや喜劇?)が展開されているように思います。たとえエリートや功労者であったとしても、当局にとって都合が悪い人物とみなされれば、簡単にその社会的地位は転覆されてしまう、また、権威の中でも賄賂や汚職が蔓延しており、キッチュなエゴで満ちた営みが繰り広げられています。
こうして転落する男は、クンデラの『冗談』でも描かれていますね。当作における主人公は出来心からの軽い冗談によって、エリートであるその身を転落させることになりますが、クンデラはそうした物語を喜劇として描いています。
主人公は国家保安局(シュタージ)に務める局員、ヴィースラー大尉です。彼は監視役、若いシュタージ候補生の指導も担当しており、そのまま政府に対して従順に職務を全うしていれば、将来は約束されていたような優秀な人物でした。経験による勘から、西側とも繋がりとも繋がりをもっていた劇作家、ゲオルグ・ドライマンに目をつけ、盗聴と監視を開始します。まもなく、ドライマンとその周辺の芸術家の反政府的な思惑が明らかとなるのですが、一方でヴィースラーは、彼らの筒抜けになった挑戦的な野心を当局に報告することもせず、ただ見逃し続けます。
共産党に従順だった彼を変えるきっかけとなったのは、ドライマンが奏でたピアノ・ソナタ。ドライマンは誕生日の日に、友人のイェルスカから、「善き人のためのソナタ」の譜面を贈られます。イェルスカもかつては劇作家だったのですが、その過激な作風が当局の目に触れ、やがて仕事も熱量も失ってしまった不遇な芸術家です。のちにイェルスカは自死を選択します。皮肉にも、この友人の死が、ドライマンに政府へ反発させる契機となりました。
ところで、「善き」人とはいったいどのような人物なのでしょうか。人の徳性や善性は、何によって保証されるのでしょう。
ヴィースラーは家族はおろか恋人や友人もおらず、慰みは娼婦との時間です。いくら優秀なエリートであるとはいえ、孤独な人間でした。立場上、人間との繋がりをあえて放棄していたのか、それとも真面目な人柄がそうした人間関係構築の障害となったのか、定かではありませんが(ドライマンらへの過大な支援、あるいは干渉を踏まえると、本来の彼は情け深い人物であるように思えるので、前者であるような気がしなくもないです)。
ヴィースラーは、ドライマンら芸術家が織りなす調和と闘いの物語を、その周縁から見守り、やがて、彼らを“見逃す”のではなく、積極的に”保護”、すなわち彼らに関与していく立場になります。そうすることで、孤立して冷え切った自身の魂は再び人の温もりに触れることになります。その点においては、救われていたのはヴィースラー自身です。ドライマンに対する”善き”振る舞いに、彼は自身の後ろめたさの解消を期待していたのではないでしょうか。
結果的に、当局にとって優秀で”良き”人物だったヴィースラーは、”善き”悪人(保護天使)への変化を遂げます(あるいは、彼の生来の徳性が表出しただけかもしれません)。ただし、この変化によって、彼は転落することになるため、「善き人のためのソナタ」とは、呪いの曲でもありますね。
なお、「この曲を聴いたものは、悪人になれない」と確かイェルスカは言いましたが、それは本当でしょうか。私は善性と悪人であることは両立すると思います。とりわけ、本作で描かれているような社会においては。
また、”良き”と”善き”の言葉にこそ、その二面性が象徴されるように感じました。前者は、建前、表層、言い換えれば記号やシニフィアン。後者は本質、内面、シニフィエ?もちろんその限りではないでしょうが。
そのほかにメタファーを挙げるとすれば、「家(生活)」。それもまた二面性の表象ですね。外向きには従順な芸術家らの本心や反抗心、仲間内でしか共有されない実情は、屋内において明らかになります。視聴者もヴィースラーの視点から、本来は知る由のない「他人の生活」に触れることができるので、なんだか臨場感があります。
信念は、政治的な派閥とか、イデオロギーによってもうけられた境界のその超越したところで躍動します。
人の基本的な構成要因は魂であり、後験的に所属や政治的志向といった要素が個人に付加されていきます。そのようにして張り巡らされた境界に、本質的な部分においては干渉されない領域が芸術であり、芸術において表現したいという願望を駆り立たせるのは信念です。さらに、そのような超現実的な作品を創造できる存在こそが芸術家なのである、と、そのような所感が鑑賞後の心を占めました。それを踏まえると、本作、芸術家讃歌の作品でもあるのだという印象を抱きます。
HGWXX/7 gewidmet, in Dankbarkeit.
東西を隔つ壁の崩壊後、出版された著作を介してドライマンからヴィースラー(コードネーム、HGWXX/7)に送られた謝辞です。ヴィースラーは本当の意味で善人となり、独りではなくなったのですね。芸術には、孤独を善に昇華させる、そんな力もあるようです。
その顛末はハリウッドらしくもあるが、もっと穏やかで冷酷で、それでも情熱と善性にあふれる作品でした。雪解け後、かつての東ドイツに対する郷愁から、じんわりとしたノスタルジアを感じることもあるかもしれません。緊張感があり、場面の展開も著しいので、見易い映画だと思います。私はかなり好きです。また、主演ウルリッヒ・ミューエの演技、その眼差しが非常に印象的でした。いずれまた視聴したいと思います。その時は、ぜひDVDで、、。
鑑賞日:2024/12/30
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