はじめまして、平均値です。
はじめまして、平均値(へいきんち)です。
当アカウントに興味を持って頂きありがとうございます。
まずは僕のことをお話しさせてください。
名前「平均値」の由来ですが、中学生の頃の成績が学年の真ん中、マラソン大会でも真ん中、大体どこへ行っても真ん中あたりにポジションするくせ?があって、だけです。笑
某地方都市で生まれ育ち、高校卒業後は一浪して都内にある平均を象徴する大学の理工学部へ入りました。
テレビで観たホンダの「アシモ」という2速歩行ロボットに感動して「これからはロボットの時代が来る!」と熱狂し、ロボット工学を学ぼう、そんな思いでいました。
ところが、です。
子供の頃からラジコンやプラモデルが好きだったので、「機械を組み立てればロボットができる」と安直な気持ちでいたところ、入学してみて初めてロボットには「プログラミング」がつきものだと。
プログラミングの必須科目「C言語」の1ページからさっぱり意味が分からなく、、平均どころか、最底辺を彷徨うことになり、早速大学暗黒時代へ突入していきます。
何か他にやりたいこともなく、なんとなく大学へ行き、なんとなく友達と話し、なんとなくバイトして、なんとなく家に帰るとても底辺な日々を過ごすことになります。
そんなことを続けた3年間の思い出はほとんどありません。。
C言語の授業はなんとかリミットの3年をかけて履修しました。(一浪しているのでもはや留年はできない)
これを落とすと4年には上がれないので、担当教員に手紙を書いて泣きつき懇願したのはここだけの話。
そして4年次、一応目標だったロボット工学研究室へ配属されたものの、辛い気持ちでいっぱいです。
ですが、ここで僕はその後の運命を大きく変える出会いをします。
4年の研究室配属になると、1部(昼間)と2部(夜間)の学生が一緒になります。
僕は1部の学生だったので、それまで2部の学生とは交わりはありませんでした。
そんなこともあり、初対面同士お互い挨拶をする中で、一名、挨拶をしても返事をしない嫌なやつOがいました。
Oはツンツンしたパーマかけてパリピな感じだし、平均値な自分は絶対こいつとは仲良くならん、と心に決めました。
ところがしばらくして、何やらハンディカムで地面を動く毛虫を撮影するOを目撃します。
何をやっているか聞くと、仕事での素材に使うらしい。
よくよく聞いてみると、ウルト○マンで有名な制作会社で働いていると。
いわゆる「クリエイティブ」なお仕事です。
僕はそれまで「クリエイティブ」な仕事に関わったこともなければ、それを仕事にしている人に会ったこともありませんでした。
そこから急速にOに興味を持ち、1人暮らしの家に遊びへ行くことになりました。
部屋に入ってみると、奥の方に青くてかっこいい何かが鎮座している。
聞くと「マッキントッシュG3」と。
何やら、このまっきんとっしゅで色々「デザイン」していると。
電撃が走りました。
デザイン?????
デザイン、もちろん言葉としては知っているけど、デザインを仕事にしている人間を初めて目の当たりにした、というより、デザインという仕事がこの世にある事実に初めて触れた瞬間でした。
こいつとは絶対仲良くならん!はずだったのに、それ以来Oの家に入り浸り居候状態になりました。
Oは、生粋のパリピです。
平均値にとってかけ離れた存在、渋谷の「クラブ」へOのバイクに跨り、朝まで遊んで帰る。
そんなとても平均値でないことを繰り返し、友達になったDJとクラブイベントを開催するうちに、マッキントッシュG3 でフライヤーやVJ用の映像をつくるようになりました。
そんな日々を過ごしながら、しかし4年生でもあり、周りは就職活動を始める季節です。
自分も御多分にもれず、就職活動を頑張りました。
当時は就職氷河期まっただ中ということもあり、エントリーシートを250通ほど送り、面接ヘもかなり行きました。
その結果、某液晶ディスプレーメーカーへの内定が決まり、この書類をポストヘ投函すれば入社が確定する。
その書類を持ってポストの前まで行き、そこで立ち止まりました。
この仕事は本当に、自分がしたい仕事なのか?
生まれて初めて、自分の本音と向き合いました、ポストの前で。
そこで「デザインがしたい」という自分の声を聞くことになります。
投函しかけた書類を引き上げ、そのまま内定を頂いた企業の採用担当者へ電話をしました。
平均値「大変申し訳ありません。内定を辞退させてください」
担当者「え?どうしたんですか?」
平均値「その、、やりたいことができてしまいまして、、」
担当者「なんですか、それは」
平均値「えっと、その、デザインがしたいんです」
担当者「え、ちょっと待ってください、今どこですか?」
平均値「実家の〇〇市にいます」
担当者「今からいきます」
平均値「 え? ?ちょっと待ってください」
という押し問答のようなやりとりを30 分して、最後はなんとか納得頂いて内定辞退ということで了承いただきました。
当時東証2 部に上場したばかりの、可能性を強く感じた素晴らしい企業で、最近調べてみたら1 部上場し、株価も昇龍のごとく右肩上がりになっていました。
でも、その後の自分の人生に全く後悔はありません。
大学は無職のまま卒業しました。
新宿の釜飯屋でバイトしながら、サッカーW 杯の時渋谷のクラブでパブリックビューイングイペントを3日間したら、箱の動員記録を破る入りで200 万ほどを売り上げ、半年くらい何もせずに暮らしたり。(ダメ人間)
懐が寂しくなり始めたところで、そうだ、俺はデザイナーになるんだ!と思い出し、求人「パッケージデザインあり」に応募したらTV 番組の制作会社の入社試験で、スーツ姿の面々の中自分だけジーパンで臨んでしまい、隣の人は準備万端の資料を活用しながら面接に答える中、「5 年後、何をしていますか?」 の問いに「この会社にはいませんね」と答えるダメ人間ぶりを発揮したのに何故か1 次面接通過、それでも祇め腐ってジーパンで臨んだ2 次面接をパスし、意外にも狭き門だった入社試験を合格、アルバイトだと思っ
てたのに結果として人生初めての会社員になりました。
しかしデザイナー的な仕事はほんの一部、ほぼ全てがバラエティ番組のAD の仕事で、突然奴隷のような日々が始まりました。
ロケの準備では渋谷の坂という坂を走り回り数日で足首が腱鞘炎になり、4日間ほぼ徹夜で仕事していたらあまりにも髪の毛がペカペカで「お前はゴキブリか」と引っ叩かれたり、いや引っ叩かれるのは毎日で、稀にある休日にも15 分おきに先輩AD から電話がかかってくるような職場でした。
自分と同期入社した人間2 人のうち、1 人は肝臓を患い入院、もう1 人はメンタル病んで実家へ帰ってしまいました。
そういえば、ロケ初日に先輩AD が「お前、ぶっ壊してやるからな」と言っていたのは本気だったんだな、と思いつつ、その先輩AD がまたものすごく仕事ができる人で、ある晩、半べそをかきながら「Tさん、、T さんはなんでそんなに仕事できるんスか?」と質問したらただ一言「好きだからだよ」と返ってきて、ガーン!と来ました。
好きだから...俺はこの仕事、好きだっけ?いやいや、自分はデザインしたかったのに、全然違うことしているじゃないか..!と、またまた忘れていたことを思い出し、その翌日、ロケバスの中でTさんに趣味で描いていた油絵の写真を見せるや、今まで本当にゴキブリを見る目だったTさんの目つきが変わり、一言「お前はそっち(の世界)へ行け」と。
その一言で心も決まり、軌道修正、よし、俺はデザイナーになるんだ!と強い気持ちで辞意を社長にもお伝えし、「どこへ行っても一緒だぞ」の言葉に怯みながらも、希望だけを胸に、片っ端からデザイン会社への面接へ行くも、全く相手にしてもらえませんでした。
今でこそ、様々な背景を持ったデザイナーはわんさかいますが、当時は美大やデザイン専門学校卒が当たり前で、自分のような基礎教育を受けていない、ばったモンみたいな存在は全く相手にされませんでした。
それでも、会社辞めちゃったし、なんとかしなきゃ、の思いで面接へ行き続けた結果、銀座に事務所を構えるデザイン会社の面接を通過することができました。
銀座、田舎者からしたら憧れの地でキラキラしていて、まさか自分が銀座で働けるなんて、、と思ったのも束の間、3 ヶ月でクビになってしまいます。
銀座で事務所を構える、それってやっぱりすこくて、自分のような経験値が全くない人間にはとてもじゃないけど不釣り合いな場所だったんだと思い知りました。
その帰り道、悔しくて、情けなくて、涙ぐみながら電車に乗ったのを覚えています。
でも、自分にはデザインしかない。
何もできない自分は、それでもデザインにしがみつこう、それしか選択肢がありませんでした。
それからもデザイン事務所への面接を繰り返し、ある時はキャバクラ専門のデザイン事務所へ行き、なんでもやります!やらせてください!と熱い気持ちを伝えるも不採用、心なんていくつも折れてしまってもはや麻痺しかけている時に、新宿のデザイン事務所で採用していただけました。
社長は熊のような体躯&ちょび髭、車は黒塗りのペンツAMG を乗っていたので、完全にあちらの方にしか見えなかったけども、自分がクラブイベント用に作ったフライヤーデザインを勘違いして気に入ってもらったのが勝因でした。
社長「おお、ここに富士山のシルエットをレイアウトするってのはいいね」
平均値「(ふ、富士山?そんなのデザインした覚えないけど…)や、そうですか?ありがとうございます!」
見間違い採用でした。
きっかけはなんであれ、入れた、デザイン事務所に入れた!という喜びはすごくて、本当に1 からその事務所でデザインのことを学び、身につけさせていただきました。
今でも感謝しても感謝しきれません。
その会社では某国産車メーカーのカタログをメインに制作をしました。
3 年ほど働かせて頂きましたが、後半は何故か企画書の作り方をみっちり叩き込まれて、今の仕事にとても生かされています。
ただ、割と真面目な仕事がメインでもあったので、視野を広げたい、という欲求と共に、ファッション系のデザイン事務所へと移籍をしました。
青山にあるデザイン事務所で、都内デパートのメインピジュアルを手がけているばかりか、中東の王族をクライアントに抱えていて、NY での撮影、上海、香港、ロンドンなど海外でのプレゼンに参加したり世界最大の家具見本市ミラノサローネに出品したり、寝ないで仕事は当たり前だけど、尋常ではなく刺激的な日々を過ごさせて頂きました。
そして、気がつけば28 歳。
実は東京で仕事をする時に、母に約束をしていました。
父が自分が大学生の時に病死していたこともあり、30 歳になったら地元へ戻ると。
あと2 年、どうするか。
デザインや広告の世界にはどうしたって、あの広告代理店という存在がいます。
そして、皆一様に悪魔の巣窟、伏魔殿のように言います。
そこで、本当にそうなのか?という疑問というか好奇心がむくむくと芽生えました。
よし、広告代理店へ行ってみよう。
と言ったって、都合よく中途採用しているわけもなく、色々当たった結果、業界最大手の広告代理店への出向というルートを発見し、早速面接へ行きました。
今まで散々面接でコケた結果、面接のコツのようなものを掴んでいて、「面白さを提供する」イメージで臨むと、面白い会社はほぼ採用してくれました。
それが広告代理店でもちゃんと通じ、無事勤務開始に。
自分が配属されたのは会社でも先端の広告を担当する部署で、業界人なら誰もが知っているスタープレイヤーばかり、でも自分は純粋な広告の世界にいたわけでもないので、よくわからないままAD (今度はアートディレクター)として業務に当たりました。
結論から言うと、本当に皆優秀で、能力が高い、熱くていい人が沢山いる場所なんだな、とわかりました。
当然何千人も社員がいるので、そうでない人もいるでしょうが、自分が関わった人たちは本当に素晴らしい人たちばかりでした。
ナショナルクライアントを中心に、30歳まで2年弱働かせて頂きましたが、屋形船での送別会で、船外に垂れた釣り糸を引いてみたらタコ(ぬいぐるみ)が釣れたのは今でも良い思い出です。
以上が、私の自己紹介、前半の部になります。
我ながらなかなか面白い20 代をおくれたと思っています、平均値なのに。
そういえば、大学時代3年間を暗黒時代と記しましたが、実のところ、中学くらいからずっと暗黒時代でした。
と言うのも、高校の学祭の時に、小中の同級生の女の子が遊びに来ていて、会った際に面と向かって「あのさ、きみつまんなくなったよね。昔の方がキラキラしてたよ」と言われてしまったのです。
振り返ると、自分の人生に大きく楔のように突き刺さって影響してきたのはこの言葉です。
キラキラ?それはいつ?小学生?ああ、そういえば、キラキラしてたかも。
毎日が楽しくて、好きなサッカーだけをして生きてたもんな。。
でもサッカーで暮らしていけるわけじゃないし、他に自分がキラキラできるものは、、で辿りついたのが「デザイナー」だったんです。
だから、ポストの前で踵を返したんでした。
好きなデザインをして、キラキラして生きてみたい。
それが、すっかりつまらない人間になってしまった人間の、最大の目標でした。
そういう意味では20 代、それなりにキラキラできていたのかな?と満足すると共に、30歳になった途端、燃え尽き感が襲ってきました。
燃え尽き症候群、てやつですね.
地元へ戻っても、正直デザインの仕事に対する熱意が冷めてしまい、若干引きこもりながらデザイン以外の仕事を模索し始めます。
実家に使われていない小屋があり、そこを自分でペンキを塗ってリノベして、小さな雑貨屋を開店しました。
また、同時に靴職人のも元に修行へ行き、靴づくりを身につけようとしました。
ところが、そうこうするうちに、地元へ戻った際共通の友人を介して出会った彼女、今の妻と結婚することになり、焦りました。
細々と雑貨屋をしながら、とはいえ少しだけデザインの仕事もして、合わせて年収100 万円ほど。
実家暮らしとはいえ、厳しすぎるなと。
そこから、腹を括ります。
靴職人になる夢は来世に叶える、今はデザインにフォーカスしよう。
そこで、準備してきたミシンや道具、材料は売払い、雑貨屋も閉じて、デザイン業務だけに絞りました。
ただし、それまで通りのデザインだけでは、到底今後の結婚や出産、家族のことを考えると厳しいと思っていました。
でも、自分はプログラミングで挫折していてコーディングはできない、撮影も正直向いていない、イラストも描けない、ではどうやって収入を上げるのか?そんな大きな問いと共に、あるコンセプトが浮かびました。
自分がずーっとしてきたデザインは、デザイナーが本来提供していることの半分しか対価を頂いていない、言い換えると、半分しか納品できていないのでは?という仮説です。
それを解決するには?でたどり着いたのが「ブランディング」です。
その検証をその後10数年にわたって行ってきた結果、結婚、出産(2人)、戸建て購入、という今やコスパ悪しで避けられてしまうライフステージを通過し、事業も法人化(現在9期目)したことを考えると、当初の仮説に間違いはないと言えそうです。
案件数をひたすら増やしたから、というわけではありません。
我々デザイナーの仕事は時間ばかり奪われて、朝も昼も夜もそして休日も仕事だらけの日々になってしまいがちです。
でも、僕が考える理想のデザイナーの仕事はそうではありません。
デザイナーは、誰よりも遊び体験を増やすことで良い仕事ができるようになるはずです。
なので、僕の考えるデザイナーの仕事は、量の方へは行きません。
QOL を高めながら、家族との幸せな時間を過こす。
そして、誰よりもデザインでクライアントに貢献する。
その、自分が理想とし、実践してきたブランディング手法をお伝えしようと思います。
因みに、この伝える取り組みにもきっかけになった出来事があります。
一つ目は、付き合いのあったフリーランスデザイナーが、次々と会社勤めになったこと。
それぞれ様々な理由はありますが、やはり収入のことが一番であることに変わりありませんし、個人的にはもったいない、という思いが強く残っています。
そして二つ目が、ある日フリーでデザインをしている知人女性が事務所へ来て「弟子にしてください! 」と真面目に懇願されたこと。
そんなの漫画でしか聞いたこと無かったので、青天の露震というか面食らってしまいました。
でも、そのことで気がついたのです。
今まで、家族と生きていくために培ってきた「ブランディング術」は誰かの為に役に立つんじゃないかと。
そして思いました。そうか、自分が独立して今までやってきたことを、必要とする人に伝えようと。
それが、自分の新しい役割りだと気がつき、noteを始めようと決心した次第です。
最後に、ここではデザインのテクニックには全く触れません。
そうではなく、もう少し広い視野でデザインを捉えつつ、デザインの本質を見つめていくことで、魅力あるブランドづくりの術、そして稼ぐ術を伝えていこうと思います。
ぜひこの中で共に学び合い、いつまでも大好きなデザインで生きていきましょう。
今は大変だけど、これから頑張れば人生トントンじゃん!そんなビジョンを共有できる皆さんとの良き出会いに恵まれますよう。
平均値