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〔抄訳〕マルクス『資本論』(フランス語版,1872年)


はじめに

 以下に訳出するのは,Karl Marx, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris, 1872(カール・マルクス『資本』M. J. ロア訳,著者による全面改訂版,パリ,1872年)である.本書の解説については別途,拙稿「マルクス『資本論』試論」を参照されたい.

 本書に関しては,林直道『フランス語版資本論の研究』(大月書店,1975年)があり,邦訳もカール・マルクス『フランス語版資本論(上・下)』(江夏美千穂・上杉聰彦訳,法政大学出版局,1979年)が出版されている.しかし,残念なことに,私自身はこれらの著作をまだ手に入れることができていない.先行訳で参照できたのは,井上康・崎山政毅『マルクスと商品語』(社会評論社,2017年)に付された「『資本論』初版(ドイツ語),同第二版(ドイツ語),同フランス語版各冒頭商品論出だし部分の対照表と各邦訳」だけであるが,これも部分訳にとどまっている.

 そこで以下では,自家用本のメモのつもりで,フランス語版『資本論』に忠実に訳出を試みたいと思う.訳文の大部分は,岡崎次郎訳『資本論』(大月書店,1972年)の訳業に倣っている.他にも,分野を問わず数多くの研究書を参照している.そのすべてをここに挙げることはできないが,先輩諸氏の偉業に感謝申し上げる.

ラシャトル版とオリオル復刻版

 訳文を示す前に,フランス語版『資本論』における異版や異刷について若干触れておきたい.フランス語版『資本論』には,ラシャトル版オリオル復刻版と呼ばれる二つの版本があることが知られている.

 フランス語版『資本論』は,ドイツ語版『資本論』の2版にかなりの改訂を加えた版本です.したがってフランス語版『資本論』は,『資本論』研究においてドイツ語版とはまた独自な価値のある版本とされています.これは1872年から1875年にかけて,44分冊を9回シリーズに分けてパリで発行されました.翻訳者はジョセフ・ロア,発行はラシャトル出版社でした.この版本を,後年に出版された復刻版と区別して,ラシャトル版と呼びます.ウローエヴァの調査によれば,ラシャトル版は9シリーズが順次刊行された後,すべてのシリーズを仮綴して1冊の本としても発行されたと言われています.
 この後,ラシャトルから出版社を譲られたアンリ・オリオルが,品切れとなった一部のシリーズを1884年に増刷します.また,ラシャトルの版本全体の復刻版を1885年に刊行します.これらは,紙型の組み換えなどがおこなわれ,ラシャトル版とは体裁の異なっている版本です.こちらは前者と区別してオリオル復刻版と呼びましょう.このオリオル復刻版については,印刷体裁の異なるいくつかの異本があることが知られています.
久保ほか2003:9)

ラシャトル版とは,1872年から1875年にかけて分冊で発行されたもの及びその全体を指す.これに対して,オリオル復刻版とは,1884年に増刷された分冊及び1885年に発行された全体の復刻版を指す.いずれの版本も本文に差異はないとされているが,細部を比較すると,章タイトル飾りや挿画が違っていることが確認されている.

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(カール・マルクス『資本論』パリ,1872年)

 フランス語版『資本論』が分冊で発行されたことにより,一冊の本として綴じられたもののなかには,ラシャトル版とオリオル復刻版が混在しているものがあり得る.実際,上の東北大学の報告(久保ほか2003:10以下)で示されているように,パスカルが所蔵していたフランス語版『資本論』は,途中(232ページ)まではマルクスがパスカルに謹呈したラシャトル版で,それ以降(233ページから)はのちにパスカル自身が購入したオリオル復刻版が綴じられているという.

 ちなみに現在,Googleブックスを通じて閲覧可能なフランス語版『資本論』のデジタルデータには,オックスフォード大学所蔵のものと,ローマ・サピエンツァ大学所蔵のものがある.以上の点を踏まえて,両大学所蔵本がラシャトル版なのかオリオル復刻版なのかという点について見ていくことにしたい.

 まずはオックスフォード大学所蔵のフランス語版『資本論』の標題紙をご覧いただきたい.

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ここには「アンリ・オリオル監修」(HENRY ORIOL, DIRECTEUR)の文字が見える.これは,この版本がオリオル復刻版であることを示すものであろうか.その判断については留保しつつ,次に224ページ17章冒頭をご覧いただきたい.

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他の章では飾りの中に"CHAPITRE"と表記されているが,ここでは"XVII"とだけ表記されている.次に268ページの挿画をご覧いただきたい.

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このページの挿画には楽器だけが描写されている.しかし,他にも挿画に楽器と楽譜が描写されている版本や人物画が描かれている版本が確認されていることが分かっている.人物画の版はパスカル本に含まれおり,これがオリオル復刻版の特徴であるといわれている.

 このオックスフォード所蔵本は,東北大学の報告では中野本と呼ばれている版本の特徴に一致している.「中野本はラシャトル版の特徴を備えて」(久保2003:10)いるとされているので,オックスフォード所蔵本はラシャトル版の可能性が高い.しかしながら,上で見たように,標題紙には「アンリ・オリオル監修」の名前が付いている.この点からオリオル復刻版の可能性も排除できない.もとよりラシャトル版の標題紙には「アンリ・オリオル監修」と表記されていたのかもしれない.この点については,比較できるサンプル数が少ない為,現時点では判断を留保しておくことにしたい.

 次にローマ・サピエンツァ大学所蔵本のフランス語版『資本論』を見ていこう.

 この所蔵本の標題紙はスキャンされておらず,そのため,そこに「アンリ・オリオル監修」の文字が付されていたのか不明である.さしあたり比較可能な224ページをご覧いただきたい.

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先のオックスフォード大学所蔵本とは異なり,ここでは"CHAPITRE"の文字が見える.また268ページの挿画は次のようになっている.

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こちらも,先のオックスフォード大学所蔵本とは異なり,挿画には楽器と楽譜が描かれている.

 以上のようにオックスフォード大学所蔵本とローマ・サピエンツァ大学所蔵本とを比較することによって,フランス語版『資本論』には異版や異刷があることがお分かりいただけたと思う.

文献

Marx, Karl, 1872a, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris. (University of Oxford, 2006)
Marx, Karl, 1872b, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris. (Sapienza – Università di Roma, 2016)
久保誠二郎・窪俊一・大村泉 2003「シリーズ 貴重図書23—東北大学附属図書館所蔵 マルクス/エンゲルス貴重書閲覧システムについて」東北大学附属図書館報『木這子』Vol.28.

カール・マルクス『資本』(パリ,1872年)

第一部
資本主義的生産

発展

第一篇
商品と貨幣

第一章
商品

第一節
商品の二要因:使用価値と交換価値あるいは本来的な価値
(価値の実体.価値の大きさ)

 資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は,一つの「膨大な商品集積」*1として示される.商品とはこの富の要素形式であり,したがって,商品の分析が,我々の研究の出発点となる.
 商品とは,さしあたり,一つの外的対象であり,その諸属性によってなんらかの種類の諸々の人間的欲求を満足させる事物である.これら諸々の〔人間的〕欲求が胃袋から生じてこようと空想から生じてこようと,その〔人間的欲求の〕本性は,事柄を何ら変えるものではない*2.ここではまた,これら諸々の〔人間的〕欲求がどのようにして満たされるか,すなわち直接的に,対象が生活手段であるか,迂回路を通って,〔対象が〕生産手段であるか,ということも,問題ではない.
 鉄や紙などのような有用物のおのおのは,質と量という二重の観点から考察されることができる.〔有用物の〕おのおのは,多様な属性の総体であり,したがって多様な側面から有用であり得る.こうした多様な側面を発見すると同時に,諸事物の多様な用途を発見することは,歴史の所産である*3.諸々の有用物の量に対する社会的尺度を発見することも,そうである.こうした商品尺度の多様性は,あるものは測定対象の多様な性質から,あるものは慣行から生じてくる.
 ある事物の有用性は,その事物を使用価値にする*4.しかし,この有用性は漠然としたものではない.この有用性は,商品体の諸属性によって規定されており,商品体なしには存在しない.鉄や小麦やダイヤモンドなどのような,こうした物体それ自体が,結論から言えば使用価値であり,その諸々の有用性の取得が人間に費やさせる労働の多寡がその物体それ自体に〔使用価値という〕この特徴を付与するわけではない.使用価値を問題とする場合には,一ダースの時計や一メートルの亜麻布や一トンの鉄などのような,ある一定の量はつねに暗黙の了解である.諸商品の諸使用価値は,ある特殊な知識・学問・商業的因習の原資を提供する*5.諸使用価値は,使用または消費においてのみ実現される.諸使用価値は,富の社会的形式にかかわらず,富の素材を形成する.我々が検討しなけれればならない社会においては,諸使用価値は,同時に,交換価値の素材的な担い手である.
 交換価値は,さしあたり,量的関係として,すなわちある種の使用価値が異なる別種の使用価値と相互に交換される割合として*6,時間と場所によって常に変化する比率として,現象する.それゆえ,交換価値は何か或る任意の,純粋に相対的なものであるように見える.したがって,商品に固有の内在的交換価値というものは,スコラの言うような,一つの形容矛盾〔contradictio in adjecto〕であるように見える*7.その事柄をより詳しく考察しよう.
 ある個別の商品,例えば一クォーターの小麦は,他の諸商品と最も多様な割合で交換される.しかしながら,その交換価値は,x量の靴墨やy量の絹,z量の金などで表現されようとも,不変のままである.したがって,その交換価値は,これらの多様な表現とは区別される或る内実を持っているに違いない.
 さらに,小麦と鉄という二つの商品を取り上げよう.これらの交換比率がどうであろうと,この関係は常に,ある所与の量の小麦がどれだけかの鉄に等置される,という一つの等式で表わすことができる.例えば,1クォーターの小麦=aキログラムの鉄というように.この等式はなにを意味しているのであろうか?それは,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaキログラムの鉄のなかにも,ある共通なものが存在するということである.したがって,両方とも或る第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.それらのうちのどちらも,交換価値として,他方のものにかかわりなく,第三のものに還元できるのである.
 初等幾何学から借用する一例が,このことをもっとわかりやすくするであろう.あらゆる直線図形の面積を確定し比較するためには,それらをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,目に見えるその形とはまったく違った一表現——その底辺と高さの積の二分の一——に還元する.これと同様に,諸商品の諸交換価値は,或る共通なものに還元されるはずであり,それらはこの共通なものの,あるいはより多くを,あるいはより少なくを,表しているのである.
 この共通なものは,商品の幾何学的とか,物理学的とか,化学的などというような自然的な属性ではありえない.およそ商品の自然的な属性は,ただそれらが商品を,使用価値を生む有用なものにするかぎりでしか,問題にならないのである.ところが,他方,商品の交換において,諸商品の使用価値は捨象され,いかなる交換価値も,まさにこの抽象に明白に特徴づけられているのである.交換においては,ある一つの使用価値は,それが適当な割合でありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけの価値がある.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「商品のうち或る種のものは,その価値が等しい場合,別の商品と並ぶ同等の財である.同等の価値をもつ諸事物に差異や区別はない」*8.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,ただいろいろに違った量でしかありえない.
 諸商品の使用価値をひとまず取って措くことにすると,商品に残るものはただ,それが労働生産物であるというひとつの性質だけである.しかし,労働生産物それ自体が我々の知らぬ間にすでに変貌を遂げているのである.我々が労働生産物の使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,それ〔労働生産物〕にこの〔使用〕価値を与えていた物質的・形式的な諸要素はすべて一度に消え去ってしまう.それはもはや,例えば,机や家,糸などの有用な対象ではない.それはまた,糸織り女工や石工の労働生産物,すなわちいかなる特定の生産的労働の生産物でもない.労働生産物の特殊に有用な性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用な性格も,ある種類の労働を他の種類の労働から区別する様々な具体的な諸形式も消え去ってしまう.したがって,もはや,こうした労働の共通な性格しか残っていない.こうした労働はすべて,同じ人間的労働に,人間的労働力が支出された特殊な形式にかかわりなく人間的労働力の支出に還元されている.

原注

*1:カール・マルクス『経済学批判〔政治経済学の批判のために〕』ベルリン,1859年,4ページ〔正しくは3ページ〕.
*2:「欲望は欲求を含む.これは心の食欲であり,肉体の飢えと同様に,自然なものである.諸物の大多数は,心の諸欲求を満たすことによって,その価値を持つ.」ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究.ロック氏の諸考察に答えて』ロンドン,1696年,2,3ページ.
*3:「諸事物は,あらゆる場所で同じ効力を持つ内在的効力(virtue,それはバーボンにあっては使用価値を意味する特有の表現)を持っている.例えば,鉄を引きつける天然磁石のように」(l. c. p. 16).鉄を引きつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されてはじめて有用になるのである.
*4:「ある事物の自然的価値は,人間的生活の必要をみたすか便益に役立つかするところの適性に存する.」(ジョン・ロック『利子引下げ〔および貨幣の価値の引上げ〕の諸結果に関する若干の考察』1691年〔田中・竹本訳64頁〕)十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値にWorthという語を,交換価値にValueという語を用いているのが見いだされるが,これは,直接的な事物をゲルマン語派で,省察した事物をロマンス語派で表現することを愛好する言語の精神に倣っている.
*5:市民社会では,「何人も法律を知らないとはみなされない」.——つまり経済的擬制〔fictio juris〕のもとに,すべての買い手は商品の百科円環的な知識を有しているとみなされている.
6:「価値とは,ある事物と他の事物とのあいだ,ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換比率である.」(ル・トローヌ『社会利益論』,デール編『重農学派』パリ,1846年,p. 889)
*7:「いかなる事物も内在的価値を持ち得ない」(N. バーボン,前掲書,16ページ),あるいはバトラーがいうように,
 「ある事物の価値とは,
  ちょうどそれがもたらすであろうだけのものである.」

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