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〔抄訳〕マルクス『資本論』第一巻(初版,1867年)
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荒川幸也「【抄訳】マルクス『資本論』第一巻(初版,1867年)」(researchmap)
はじめに
以下に訳出するのは,Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Hamburg, 1867(カール・マルクス『資本——政治経済学の批判』第一巻,第一部,資本の生産過程,ハンブルク,1867年)である.本書の解説については別途,拙稿「マルクス『資本論』試論」を参照されたい.
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『資本論』の叙述は,ドイツ語初版(1867年),ドイツ語第二版(1872年),ドイツ語第三版(1883年),そしてフランス語版(1872年)のそれぞれにおいて若干の相違がある.しかし,書店に並んでいる邦訳は,基本的に『資本論』第四版のいわゆるエンゲルス版に準じている.『資本論』を研究するには,これらの相違を比較対照した上で吟味しなければならない.
『資本論』初版の邦訳には,江夏美千穂訳『初版資本論』(幻燈社,1983年)や牧野紀之訳『対訳・初版資本論 第1章及び附録』(信山社出版,1993年)等が存在する.井上康・崎山政毅『マルクスと商品語』(社会評論社,2017年)にも付録として「『資本論』初版(ドイツ語),同第二版(ドイツ語),同フランス語版各冒頭商品論出だし部分の対照表と各邦訳」が収録されている.
以下では,自家用本のつもりで,『資本論』ドイツ語初版の訳出を試みたい.訳文の大部分は,岡崎次郎訳『資本論』(大月書店,1972年)の訳業に倣っている.他の邦訳についていえば,中山元訳『資本論 経済学批判』(日経BP,2011年)は『一体なぜそこに傍点が付されているのか』と私には疑問に思われたが,日本共産党中央委員会社会科学研究所監修『新版 資本論』(新日本出版社,2019年)はいわゆるエンゲルス版に非常に忠実な翻訳であった.上記の邦訳以外にも,分野を問わず数多くの研究書を参照している.そのすべてをここに挙げることはできないが,先輩諸氏の偉業に感謝申し上げる.
マルクス『資本——政治経済学の批判』第一巻(ハンブルク,1867年)
第一部 資本の生産過程
第一章 商品と貨幣
第一節 商品
その社会では資本制生産様式が支配している諸社会の富は,一つの「不気味な商品集合体」(*1)として現象し,個別の商品はそのエレメント的な形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.
商品とはさしあたり,ある外的対象であり,その諸属性によってなにかある種の人間的諸欲求を満たすモノである.これらの人間的諸欲求の性質は,例えばその欲求が胃袋から生じてこようと空想から生じてこようと少しも事柄を変えるものではない(*2).いかにして事物が人間的欲求を満たすのか,直接的に生活手段として,つまり享楽の対象としてか,はたまた一つの回り道をして生産手段としてか,といった点についてもまたここでは問題としない.
どんな有用なモノも,鉄や紙などのように,質と量という二重の観点から考察される.そうしたモノはいずれも,数多くの属性からなる一つの全体であり,だから様々な側面からして有用であることがあり得る.こうした様々な側面及びそこからモノの多種多様な使用法を発見することは,歴史的な行為である(*3).有用なモノの量を測定するための社会的な尺度を見いだすこともまたそうである.商品尺度の多様性は,あるものは測定対象の様々な性質から生まれ,あるものは慣行から生まれる.
あるモノがもっている人間生活のための有用性は,そのモノを使用価値にする(*4).端的に言えば,我々は鉄や小麦やダイヤモンドなどのような有用なモノそれ自体を,即ち商品体を,使用価値,財,品物と呼ぶ.使用価値を考察する場合には,1ダースの時計や1エレのリンネル,1トンの鉄などのような量的な規定性がつねに前提とされている.諸商品の諸使用価値は,一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(*5).使用価値はもっぱらただ使用または消費の中でのみ実現される.諸使用価値はその社会的な形式がどのようなものであれ富の素材的な内容をなしている.我々によって考察されるべき社会形式では諸使用価値は同時に交換価値——の素材的な担い手をなしている.
交換価値はさしあたり量的関係として,即ちある種類の使用価値がほかの種類の使用価値と交換される割合として(*6),時間と場所によってつねに変動する関係として現象する.したがって,交換価値は,何か或る偶然的な,純粋に相対的なもののように見え,したがって商品に内的な,内在する交換価値(valeur intrinsèque)というものは,一つの形容矛盾contradictio in adjectoであるように見える(*7).我々はその事柄をヨリ詳しく考察しよう.
ある個別の商品,例えば1クォーターの小麦は,他の商品と最も多様な割合で交換される.しかし,その小麦の交換価値は,x量の靴墨やy量の絹,z量の金などで表現されようとも,不変のままである.したがって,その小麦の交換価値は,そのこうした靴墨や絹や金などの多様な表現様式から区別可能であるに違いない.
さらに二つの商品,例えば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係はつねに,ある所与の量の小麦が幾許かの量の鉄に等置されるという一つの等式で示すことができる.例えば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式は何を意味しているのであろうか? 同じ価値が二つの違った物のうちに,即ち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも存在するということである.そうであるから,両者ともにある第三のものに等しいのであるが,この第三のものは絶対的にはその一方でもなければ他方でもない.したがって,両者のうちのどちらも,それが交換価値であるかぎりで,この第三のものへと還元可能でなければならない.
単純な幾何学上の一例が,この点をヨリ直観的にわかりやすくするであろう.およそ直線形の面積を算定し比較するためには,それをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,その目に見える形とはまったく違った表現——その底辺と高さとの積の2分の1——へと還元する.同じく諸々の商品の諸々の交換価値は,それらがヨリ多くまたはヨリ少なく表現しているある共通のものに還元されるのである.
交換価値の実体が商品という物理的で‐手掴みの実存あるいはその商品の使用価値として現に在るものとは全く異なるそこから独立したものであるということは,商品の交換関係から一目瞭然である.この交換関係はまさに使用価値の捨象によって特徴付けられている.つまり,交換価値から考察すると,ある商品は,その商品がただ適正な割合で眼前にありさえすれば,他のいかなる商品ともまったく同じものなのである(*8).
したがって,それらの交換関係,即ちそれらが交換‐価値として現象するところの形式とは独立に,諸商品はさしあたり,ずばり価値として考察されるべきである(*9).
諸商品は諸使用対象や諸財貨としては物体的に多様なモノである.これに対して,それらの価値の存在は,それらの統一をなしている.この統一は,自然から生じてくるのではなく,社会から生じてくる.多様な使用価値のうちにただ多様な仕方で表現されているに過ぎない共通の社会的な実体は——労働である.
商品は価値としては結晶化した労働以外の何ものでもない.労働そのものの度量単位は単純平均労働であり,その特徴は確かに多様な地域と文化時代で変化するものであるが,ある現存する社会では所与である.ヨリ複雑な労働は冪乗というよりも乗数の単純労働としてのみ通用するのであって,例えば複雑労働のヨリ小さな量は単純労働のヨリ大きな量と等しい.この還元がいかにして調整されるのかということは,ここではどうでもよいことである.その還元が絶えず行われているということは経験が示している.ある商品は,最も複雑な労働の生産物である可能性がある.その商品の価値は,その商品を単純労働生産物と等置しており,したがって,それ自体はただ単純労働の一定の量を表現しているに過ぎない.
それゆえ,ある使用価値や財貨がただ一つの価値だけを持っているのは,労働がそれにおいて対象化ないしは物質化されているからである.では,その価値の大きさはどのようにして計られるのか。それに含まれる「価値形成実体」,すなわち労働の量によってである.労働の量そのものは,労働の継続時間で計られ,労働時間はまた一時間とか一日とかいうような特定の時間部分をその度量標準としている.
ある商品の価値がその生産中に支出された労働の量によって規定されているとすれば,ある人が怠惰または不熟練であればあるほど,彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの労働時間を必要とするので,彼の商品はそれだけ価値が大きい,というように思われるかもしれない.しかし,ただ社会的必要労働時間だけが,価値形成的なものとして数えられる.社会的必要労働時間とは,現存する社会的‐標準的な生産条件と,労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって,なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である.例えばイギリスで蒸気織機が採用されてからは,一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが,彼の個人的労働時間の生産物は,いまでは半分の社会的労働時間を表現するにすぎなくなり,そのために,それの以前の価値の半分に低落したのである.
原註
1 カール・マルクス『政治経済学の批判のために』ベルリン,1859年,S. 4〔正しくはS. 3:訳者註〕.
2 「欲望は欲求を含意している.欲望は精神の食欲であり,肉体の渇望と同じく自然的なものである.…(モノどもの)大多数は,精神の諸欲求を満たすことからその価値を持つ.」ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究.ロック氏の諸考察に答えて』ロンドン,1696年,p. 2, 3.
3 「モノどもは,あらゆる場所で同一の効力を持つ内在的な効力vertue(これはバーボンにおいては使用価値の種差的な表現)を持っている.鉄を引きつける天然磁石のように」(〔バーボン〕前掲書,p. 16).鉄を引きつけるという磁石の固有の特性は,人がその属性を手がかりとして磁石の極性を発見したときに,はじめて有用になったのである.
4 「如何なるモノの自然的価値natural worthも,人間生活の諸々の必要性を満たすか便益に役立つかするその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引下げ〔と貨幣価値引上げ〕の諸結果に関する若干の考察』1691年,『著作集』ロンドン,1777年,V,II,p. 28〔ロック『利子・貨幣論』田中正司・竹本洋訳,東京大学出版会,1978年,64頁〕).17世紀にはまだしばしばイングランドの著述家たちのあいだでは「Worth」を使用価値,「Value」を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが,それは全く直接的な事柄をゲルマン語派で表現し,反省された事柄をロマンス語派で表現することを好む言語精神にある.
5 市民社会では,何人たりとも商品購買者として百科全書的な商品知識を持っているという法的擬制fictio jurisが支配している.
6 「価値valeurとは,あるモノと他のモノとのあいだ,ある生産物の量と他の生産物の量とのあいだに成立する交換関係である.」(ル・トローヌ『社会的利益について』,デール編『重農学派たち』パリ,1846年,p. 889.)
7 「どんなモノでも内在的価値を持つことはできない」(N. バーボン,前掲書,p. 16),あるいはバトラーがいうように,
「あるモノの価値とは,
ちょうどそれがもたらすであろうだけのものである.」
8 「商品のうちある種のものは,その価値が等しい場合には別の商品と並ぶ〔代替可能な〕同等な財である.同等の価値をもつモノに差異や区別はない……100ポンドの値打ちがある鉛や鉄は,100ポンドの値打ちがある金や銀に匹敵する価値を持っている.」(N・バーボン,前掲書,p. 53及びp. 7.)
9 以後,我々が「Worth」という語をヨリ詳しい規定を抜きにして使用する場合,いつでも交換価値のことが論じられている.
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