ミシェル・フーコー「社会医学の誕生」試論
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荒川幸也「ミシェル・フーコー「社会医学の誕生」試論」(researchmap)
はじめに
以下ではフーコー「社会医学の誕生」(Michel Foucault, El nacimiento de la medicina social, 1977)を読みます。このテクストを読むことになったきっかけは、先日「ヘーゲルと医学」というテーマで少し書き始めたことでした。「医学」というディシプリンの成立について哲学的に考察したのはミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)でした。それゆえ、「ヘーゲルと医学」というテーマで書き進めるにあたって、フーコーのテクストを虚心坦懐に読み解いた時に、フーコーが「医学」についてどのようなことを述べているのかということは、少なからず押さえておく必要があるだろう、と私は考えました。 ちなみにこのテクストはスペイン語で書かれており、フランス語版は原文ではなく翻訳なのだそうです(前川2021)。
フーコー「社会医学の誕生」
スペイン語の講演記録
冒頭から読んでいきます。
フーコーが「一回目の講演」と述べているところから察せられるように、この「社会医学の誕生」は二回目の講演のようです。フーコーによるこの一連の講演について、前川真行(1967-)は次のように述べています。
私たちが読んでいるのは、まさにそのスペイン語の原稿です。 講演が行われたブラジルの公用語はポルトガル語で、私は不勉強でスペイン語とポルトガル語の違いもよく分からないのですが、スペイン語とポルトガル語は方言ぐらいの違いしかなく似ているそうです。
ロストウの「テイク・オフ」
フーコーのいう「西洋の医学や保健衛生の「テイク・オフ」」とは一体なんでしょうか。「テイク・オフ take-off」とは、経済学者ウォルト・ロストウ(Walt Whitman Rostow, 1916-2003)が1956年に唱えた経済発展理論のキータームです。
ロストウの「テイク・オフ」という用語が、飛行機の離着陸に着想を得たものであることは明らかだと私は思います。飛行機の初飛行は1903年のライト兄弟によるものだといわれていますので、およそ19世紀以前の人々に「テイク・オフ」と言ってもなんのことだかさっぱり通用しないでしょう。あるいは飛行機の発明以前の人々に「テイク・オフ」といえば、船舶が陸から離れていくことを観念するかもしれません。船舶における「テイク・オフ」は水平的に移動するイメージに他なりませんが、これでは経済発展が横ばいであるかのように捉えられてしまいます。これに対して、飛行機の発明以降の「テイク・オフ」は明らかに高度を上げて空まで飛び立つような急上昇のイメージを含んでいます。これはつまり「テイク・オフ」の観念が、20世紀に入ってから刷新されたとみるべきでしょう。
したがって、「西洋の医学や保健衛生の「テイク・オフ」」とは、飛行機の離陸のように、ある期間に医療制度が急激に変化し発展し、その後の医療活動を自動化するようななんらかの現象を指しているものと考えられます。フーコーは『監獄の誕生——監視と処罰』(Surveiller et punir: Naissance de la prison, 1975)でも「テイク・オフ」(フランス語では«décollage»)という語を用いています。
長原豊(1952-)は「この一文でフーコーは、当時の読者をして冷戦下でその政治的機能を縦横に担ったW・ロストウの経済成長論を想起させることを仕組んだのではないかとさえ邪推させる」と述べていますが、実際そうでしょう。
この後にフーコーは(1)「生命゠史 bio-historia」、(2)「医療化 medicalizatión」、(3)「健康をめぐる経済学 economía de la salud」の三点についてまとめています。
資本主義社会における身体と医学
フーコーは「社会医学の誕生」を論ずるにあたり、資本主義社会における「身体」と「医学」の変容に着目します。
「資本主義社会」という括りは、マルクスのいう「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」(『資本論』)のことを意味していると理解して良いでしょう。「資本主義社会」とは「生産様式」に基づく区分です。フーコーはマルクスを全面に出していませんが、我々が「資本主義社会」について考えるとき、マルクスの研究成果を抜きにして考えることは到底不可能です。「資本主義社会」とはそれ自体が近代的カテゴリーに属しますから、「資本主義社会」を手掛かりにフーコーが分析する「社会医学」もまた近代的カテゴリーに他ならないと言えるでしょう。
「資本主義によって人々は集団的医学から私的医学に移行したのではなく、まさにその正反対のことが起こったのだ」という仮説を示す直前に、フーコーは「十八世紀末モルガーニ*1からビシャ*2にいたる間に、病理解剖学の導入によって生まれた近代科学医学が個人的なものなのかどうなのか」という点を問題にしています。ビシャが『生と死に関する生理学的研究』(Recherches physiologiques sur la vie et la mort, 1800)を出版した頃は、「ビシャは自分の私塾のほかには働く場所をほとんど与えられていなかった」(作田2008)といいますから、フーコーがいう「私的医学」というのは、私塾のようなところで医者が個別に行っている医学のことを指しており、これに対して「集団的医学」というものが国家権力を通じてなされる医学のことを指していることがわかります。
ちなみに近代医学以前の医学、例えば古代医学についてはどのように考えられていたのでしょうか。フーコーは次のように述べています。
小倉訳では「未開社会における医学の諸形態 las formas de medicina de las sociedades primitivas」と訳されていますが、少なくとも古代ギリシアやエジプトにおいて「医学」が存在する社会でそれを「未開」と訳すのは明確に誤りではないかと思います。フーコーが「資本主義社会」というキーワードを用いていることから推察すると、それには「原始共同体 las sociedades primitivas」という訳が妥当かと思います。
フーコーの批判は、もし古代社会における医学が「社会的で集団的な医学」なのだとすれば、そこでは社会統計に基づく統治が行われていたことになるが、実際には全然そうではなかったではないか、というものです。
この後フーコーは「社会医学」の発展段階を(1)「国家医学 medicina de Estado」、(2)「都市医学 medicina urbana」、(3)「労働力の医学 medicina de la fuerza de trabajo」の三つに区分しています。
(つづく)
注
*1: ジョヴァンニ・バッティスタ・モルガーニ(Giovanni Battista Morgagni, 1682-1771)。「近代解剖病理学の父」と呼ばれる。彼が80歳になった1761年に発表した『解剖によって明らかにされた疾病の位置および原因』(De sedibus, et causis morborum per anatomen indagatis, 1761)が高い評価を受け、病理解剖学の分野を切り開く。
*2: マリー・フランソワ・グザヴィエ・ビシャ(Marie François Xavier Bichat, 1771-1802)。「近代組織学の父」と呼ばれる。著書に『生と死の生理学研究』(小松美彦・金子章予訳、所収『生と死 生命という宇宙』国書刊行会、2020年)がある。「ビシャの重要な業績は、肺や心臓などの器官(臓器)の会区分である組織(tissu)に病変を見出したことだ。例えば、結核による病変が肺を取り巻く胸膜に見出される。胸膜は漿液を分泌する漿膜性の組織だが、心臓を取り巻く心膜もやはり漿膜性である。そして心膜にも、胸膜と同じ結核の病変が見出される。このようにして、肺や心臓という特定の器官(臓器)にではなく、漿膜性の組織というレベルにおいて病変が見出される。かくして、病気の座が特定の器官にではなく、いくつかの器官にまたがって見出されるのだが、組織というレベルで見ると、そこには同じ性質が見られる。」(北垣徹「権力の新たなエコノミー」395〜396頁)。
文献
Foucault, 1975, Surveiller et punir: Naissance de la prison, Éditions Gallimard.
フーコー 2006「社会医学の誕生」小倉孝誠訳,所収『フーコー・コレクション6 生政治・統治』小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編,筑摩書房,165〜200頁.
北垣徹 2021「権力の新たなエコノミー——眩しくて見えない/単眼で見る」,所収『フーコー研究』小泉義之・立木康介編,岩波書店.
作田学 2008「ビシャ「生と死に関する生理学的研究」 (1800年)」『BRAIN and NERVE』60巻7号 (2008年7月),医学書院.
長原豊 2021「人間の群れ資本という近代と反復する本源的野蛮」,所収『フーコー研究』小泉義之・立木康介編,岩波書店,457〜476頁.
前川真行 2021「生権力と福祉国家——ミシェル・フーコーの70年代」,所収『フーコー研究』小泉義之・立木康介編,岩波書店,421〜439頁.
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