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100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』実況解説まとめ(第2回)

「100分de名著」ローティ篇、2024年2月12日22時25分〜初回放送の第2回「「公私混同」はなぜ悪い?」の旧Twitterでの実況・解説を編集・再録するまとめ記事です。

今回は『偶然性・アイロニー・連帯』の三題噺でいうと、真ん中の「アイロニー」が主題になっている回でした。
ローティの政治哲学上の有名な主張、「公共的なものと私的なものの区別」が軸になるため、『偶然性〜』だけでは掴みづらいこのアイデアについて、さまざまなサブテキストも踏まえながら、できるだけ平明に紹介できたのではないかと思います。
『偶然性』第2部におけるキーワードは「(公的な)リベラル・(私的な)アイロニスト」という、もし首尾一貫性を求めるならば「矛盾」した在り方を積極的に肯定することでした。

第3回・第4回では、「リベラル」の方の最重要キーワードである「残酷さ」を掘り下げていきますので、どうしても(難易度というよりは扱い主題的に)重ための展開になっていきます。
その意味で、第2回は*あえて*「アイロニー」、自分のことばづかいを、どんなに大事なものであれ改訂に開くこと、のポジティブ面を強調していますが、SNSでの感想でも散見されたように、当然こうした「再記述」はたんにポジティブなものだばかりではありません。そうした面を、次回以降で見ていきます。
そのため、収録現場では毎回とても会話が弾んだのですが、この第2回がいちばん明るい雰囲気で盛り上がって話せたかもしれませんね。

では、前置きはそんなところで、第2回の実況・解説をふりかえります。

NHK「100分de名著」ローティ篇、第2回「「公私混同」はなぜ悪い?」、はじまります。こちらで実況解説をしますね。今回はサブテキストが色々ある回になりそうです。「バザールとクラブ」など、さまざまローティ的コンセプトが飛び交うかと思います。どうぞよろしくお願いします。

https://x.com/hee_verm/status/1757033276785729697?s=20

政治哲学で「公/私の区別」というと、まずハンナ・アーレントとローティのそれが挙げられがちです。ローティの主張は、ややもすると乱暴に聞こえたり、安易な提案にも思われるため、今回は『偶然性・アイロニー・連帯』第二部でのアイロニー論、「私的なアイロニスト」と「公的なリベラル」の一個人のなかでの両立、という話が腹落ちするためにも、さまざまなサブテキスト参照しながら、この主張の「動機」について、まずはポジティブサイドを強調しました。(ネガティブサイド、つまり何を避けるためにこうした主張をしているのか、は今回も断片的に出ましたが、第三部「残酷さと連帯」の「残酷さ」をキーワードとして、第3回・第4回で見ていきます。)

戸田恵子さんナビゲーション、スタート。 番組オープニングがすごいですね。 今回は、緑色の服が伊集院さんと被りました…!汗

https://x.com/hee_verm/status/1757033276785729697?s=20

ちなみに第2回、第1回からシャツと靴下を変えてます。この緑のシャツ、「絵本『モチモチの木』みたい」と行きつけの酒場で言われて言い得て妙で笑いましたが、気に入っているシャツでした。そして第1回に続いて、伊集院さんと色味が被ってしまいました…。「公的なものと私的なものの区別」は、重要モチーフです。

https://x.com/hee_verm/status/1757036102484115607?s=20

とりあえず映像関連の話から。色々な方が書いているので問題ないと思いますが、基本的には全4回分を二日に分けて撮っているみたいです。なので第1回とは同日。これはまさに裏話ですが、以前に同番組でブルデュー『ディスタンクシオン』篇の指南役を務められた岸政彦さんを参考に、初回のセットアップから、だんだんカジュアルダウンしていく方針で着替えてます。
第1回からジャケット脱いで、シャツと靴下を変えて…という感じですね。そうしたらまた緑色が被るという…。
衣装情報などはまたInstagramにて更新します。
https://www.instagram.com/heechul_ju


「ボキャブラリー」は、ローティの最重要キーワードです。今回、どうでしょうか。第1回で盛り上がって、打ち解けたことによって、ちょっと落ち着いて話している第2回なんじゃないかと思います。今回、第2部「アイロニー」について論じていきます。

https://x.com/hee_verm/status/1757034495255953715?s=20

冒頭から『偶然性・アイロニー・連帯』どころかローティ哲学全体の中心的コンセプトだと私が理解している「人間や社会(文化)は、受肉したボキャブラリーである」が登場しました。
前回、振りだけがあった箇所の典拠ということになりますね。
自分の話ばかりで恐縮ですが(つい気になるもので…)、今回は第1回より落ち着いて観られますね。声のピッチもトーンも、やや普段仕様に近いような。それもこれも伊集院さんと阿部さんとの会話のやりとりの豊かさと、スタッフの皆さんの雰囲気づくりの賜物でした。
前述の通り、第2回がテーマ上もいちばん「和やか」な雰囲気で話せた回だと思いますので、そうした和気藹々とした雰囲気が画面を通じて伝わればと思います。

「終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)」について、必殺技みたいな呼称ですが、これを「江戸っ子」みたいな日本語の例でやれて面白かったですね。伊集院さんが落語出身というのもあって、日本語での例示は意識したとことです。 戸田恵子さんにこの例示を拾ってもらったのも面白かったですね。

https://x.com/hee_verm/status/1757035034924773687?s=20

出ました、「終極の語彙」。今回、『偶然性・〜』は岩波書店から出ている既訳を忠実に使うことになっていたのですが、訳文でも漢字にカタカナでルビが振ってあるので、よりいっそう聖闘士星矢というか車田正美感がある字面なのですよね…。
ここは重要なところで、制作スタッフともディスカッションを重ねながら、どんな具体例にすればわかりやすいのか、色々アイデアを出しました。結果的に採用になった「江戸っ子」の例は、まさにこの地域性(parochialであること)、歴史的偶然の産物であること、しかしそれが枢要なアイデンティティでありうること、をうまいこと表現でき、しかも直感的に理解されやすく、落語ご出身の伊集院さんにとっても身近…といういい例になったと満足しています。
ローティも、まさかこんなローカルな翻案を経て紹介されるとは思いもかけないでしょうが、しかし、このローカルさゆえにこそ面白がってくれたんじゃないかなぁと思う次第です。

「バザールとクラブ」の比喩がアニメに…! このあたり、ローティが論文「エスノセントリズムについて」がオリジナルですが、私が膨らませた比喩をアニメにしてもらってます。サブテキストはぜひこちらにて。その論文と解説が載っています。

https://x.com/hee_verm/status/1757036595742642596?s=20

というわけで、今回のサブテキスト①です。
「バザールとクラブ」の比喩は、『偶然性・アイロニー・連帯』自体には登場しませんが、理解の助けになるのと、またこの比喩自体がとても有名ですから、ここでご紹介しました。
なお有名なのに*なぜか*翻訳がなかった論文「エスノセントリズムについて」が出典でして、それは問題だと思っていたので、翻訳と解説からなる小出版物を刊行しています。
ぼちぼち入荷してもらっている店舗も複数(東京ではマルジナリア書店さん@分倍河原、Twilightさん@三軒茶屋、京都では大垣書店高野店さん、大阪では清風堂書店さん@東梅田など)ですし、以下ECからも送料無料でお求めいただけます。

ちなみに*なぜか*と書きましたが、翻訳して全文通読したらある意味納得で、副題に「クリフォード・ギアツへの応答」とあるように、かなり文化人類学の論争の文脈を踏まえないと読みづらいリプライ論文なのですよね。
そのへんの議論の文脈も「解説」でじっくり紹介しているので、「バザールとクラブ(公と私)」論の実践篇の課題(つまり、私的な「多様性」の専門家である文化人類学者が、公的な国際政治=ユネスコの委員としてもふるまう必要があることetc)が垣間見える、おもしろい論文かと思います。

伊集院さんが仰った「これ(本音と建前の使い分け、公共的と私的の区別)、日本の人はけっこう昔からわかっているんじゃないか」は、私自身は保留をつけたいですが、日本では冨田恭彦先生も以前からそのような趣旨のことを仰ってましたね。たしかに「本音と建前」など、日本的な区別は、ある意味でローティ的区分と重なる面があると思います。

https://x.com/hee_verm/status/1757037324280742182?s=20

ここも「江戸っ子」の例に続いて、日本語的な概念(「本音と建前」)に翻案してみたことで、腹落ちしやすくなったところかな?と思っています。
ただ、それはそれで弊害もあって、「かつての日本には、もともとこうした知恵があった(そのエートスの名残が今もある)」と言ってしまっていいかというと、そこはちょっと難しいと思うのですよね。
冨田先生は冨田(2016)『ローティ』等でもそう解せる記述をされていますし、私も今回、理解促進のためにそれに接近するレトリックを使いましたが、ギリギリで「正しい建前」と「正しくない(かもしれない)本音」というように、せめて「正しさ」をめぐる修辞を入れないと、ローティがここで強調したいニュアンスをとり逃がすように思います。
日本的な「本音と建前」とローティ的な「バザールとクラブ」の説明戦略が、どこまで重なって、どこで決定的にずれるのかは、いつか腰を据えて考えてみたいと思っているテーマです。(日本思想史は不案内なので、気長にお待ちください…)

ちなみにテキストをお読みいただいた方にはp.54参照ですが、「バザールとクラブ」の比喩自体も複数の危うさ(地域・文化的ステレオタイプ、あるいはジェンダー不公正)があり、それについても制作スタッフとは共有の上、アニメは慎重に作りました。結果的に(もちろん、異議申し立てに開かれていますが…)熟慮された内容になっていると思います。

これは裏話ですが、私自身は『バザールとクラブ』で詳述し、番組でも紹介してくださったバージョンの「ある店主の一日」は、主人公を女性として読んでも成立するように書いたつもりです(もちろん「男」の方が「外の店」で一杯やってこれる、というステレオタイプと不公正の傾向について自覚的であり、そうでないようにも読みうるように…という意図です)。
番組アニメでは「(知的に見える)白人・男性」が店主になっていて、さまざまな「客」に我慢したり、同輩たち(外見的には「白人・男性・メガネ」でしたね)とくつろいだりしてましたが、さて、どんな同質性があったり、何を我慢したりしていたんでしょうね。色々裏設定を考えてましたが、そんな考察もしてもらえたら幸いです。


ここの伊集院さん「100%の「(私的)クラブ」、100%の「(公共的)バザール」、現実には区別できない」という返し、本当にすごい鋭くて、このメタファーの限界とここでの重要なポイントを突いてくださったと思います。やはり第2回、明らかにリラックスして話せているようで、ありがたい回でした。

https://x.com/hee_verm/status/1757037976918638805?s=20

ということで、今回も冴え渡る伊集院さんのコメント力。台本じゃないんですよ、本当に…。これはこの比喩のポイントでもありますが、それについてはテキストでも論じましたし、またサブテキスト②として、番組内でずっと私の後ろに映っていた単著『〈公正〉を乗りこなす』の第10章「「公」と「私」を貫く正義」でも詳細に論じていますので、「そりゃそうだろ」と思った方はぜひそれらも当たっていただければと思います。
ポイントは、「ここって「バザール」なの?「クラブ」なの?」という問いはあまり有効ではなく、むしろ「どんなつもりで言葉を使っているの?」という問いにした方がよいですよね。
テキストでも語っている通り、ある場所を「ここは「クラブ」だ(ex.「家庭のようにくつろげる職場です!」)」と公言したり、そういうふうに私的ボキャブラリーを遠慮なくふりまける人は、往々にして何らかの意味で権力勾配の高みにある人で、そこに所在をなくしたり屈従を強いられたりする人が存在することに無頓着である、というのはよくあることでしょう。
そして、SNSなどはこの問題が表面化しやすい…というのは、番組内でも語られていた通りですね。

この「リベラル」の定義=「残酷さを低減すべきとみなすこと」は、政治哲学者ジュディス・シュクラーに由来します。シュクラーについては、私も『〈公正〉を乗りこなす』後半で書きましたが、昨年に翻訳『不正義とは何か』も公刊されていますね。ロールズ以降の最重要な政治哲学者の一人ですのでぜひ。

https://x.com/hee_verm/status/1757039258123288816?s=20

上記とも関連する点として。
こちらの深掘りは、『〈公正〉を乗りこなす』8章・9章にて。
なおジョン・ロールズの名前もここで唐突に出しましたが、二〇世紀の政治哲学者を一人挙げるなら間違いなくこの名前が挙がるという人物です。
上記の『〈公正〉』本の(ローティと並ぶ)主人公でもあります。

今回番組ではさすがに紹介できませんでしたが、いつの日か「100分de名著」ロールズ篇が来たらいいなという思いもあり、テキストのコラム(p.60-61)では、「アメリカ哲学の伝統:プラグマティズムとロールズ」と題して、名前(と顔写真)を掲載してもらいました。
短いコラムなので、ロールズ研究者からは(プラグマティズム研究者からも)言いたいことが多数あると思うのですが、それは承知の上で、どうしてもこの二つの名辞(「ロールズ」と「プラグマティズム」)を残しておきたかった、という動機を斟酌いただければ幸甚です。
(もちろん、これを機にぜひ批判から、会話を広げてもらえればと…!)

なお「(公的な)リベラル・(私的な)アイロニスト」という在り方は、まさに個々人における相容れない複数のボキャブラリーの併存を指したフレーズですが、両輪とはいえ、やっぱり「公的なリベラル」なのですよね。(ただし、ここではシュクラー流のリベラル定義)
なので、SNSの反響のなかで「ローティは表現の自由を擁護しているので、公共空間での性的表象の掲出なども認めるはず。番組では逆のことを言っている」という趣旨のつぶやきを見ましたが、番組内でも述べたように、そんな解釈は成立しないと思いますね。その路線でがんばるとしたら「駅の構内などは完全な公共空間とは言えない」とか「性的特徴を強調した表象は(屈辱を与えることを含む)残酷さをもたらさない」というラインになりますが、さて…。

「トロツキーと野生の蘭」のアニメーション!この自伝的エッセイは、日本語では『リベラル・ユートピアという希望』に収録されています。ローティは、アメリカの左派エリート家庭というか、なかなかすごい両親の元に生まれているのですよね…。母方の祖父は社会福音派牧師のラウシェンブッシュです。

https://x.com/hee_verm/status/1757038716969967643?s=20

第2回の最後に来て、自伝的エピソードで締めくくる(それもアニメで!)というのは、構成もきれいで、とても気に入っています。
「トロツキーと野生の蘭」、とてもローティらしい、すぐれたエッセイでもあるので、関心持たれた方はぜひ当たってみてください。
テキストの最後の締めも、それから『新潮』2024年3月号に寄稿したエッセイ「死せる哲学者に走らされる」でも、ローティのこのエピソードを念頭に書いています。

あっという間の第2回でした…。今回、どうでしたでしょうか。第1回で打ち解けてリラックスして話せたように思います。(ちょっとゆっくり喋れたのでは…!)第3回では、「ことばづかい」のダークサイド、それこそジェノサイドにまで至りうる言葉の機構について、ローティ以降の哲学者を参照します。

https://x.com/hee_verm/status/1757039864682590473?s=20

第3回では、SNSでもちょっと話題になっていた伊藤計劃『虐殺器官』を導入に、「たかが言葉」についてこだわることがなぜ重要なのかを見ていきたいと思います。ローティ哲学のモチベーションは、アムネスティ人権講義をはじめ、こうしたアクチュアルな面を見なければとても語れないと思っています。

https://x.com/hee_verm/status/1757044958962553213?s=20

ということで、今回はあえて「アイロニー」としての絶え間ない「再記述」について、そのポジティブサイドを強調しながら、「リベラル・アイロニスト」という在り方を成立させるためのポイントを、後者寄りに解説した回でした。
それだけに、さまざま懸念やツッコミがありうると思いますので、ぜひ次回以降をお待ちください。(もちろん、テキストもぜひ!)

なお、実況・解説では言及しそびれましたが、「アイロニー」については以下の点も重要でして、番組内では盛り込みきれなかったので、以下の通り補足しておきます。
ここもテキストご参照いただけましたら。

「アイロニー」については、番組第2回では説明が端折られていますが、いわゆる「皮肉」のことではなく、「ロマン主義的イロニー(アイロニー)」のことを指しています。つねに「それ以上の何か」を求め続ける態度ですね。テキストではやや詳細に説明してますので、ぜひご参照ください。

https://x.com/hee_verm/status/1757214668190609516?s=20

ちょっと長くなりましたが、以上です。
ローティに関心を持たれた方には、今月末刊行の『人類の会話のための哲学』もぜひ…!と宣伝をもって締めたいと思います。

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