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『性と芸術』 会田誠
作家の会田誠が藝大在学中から美術家になった経緯についてと、主に『犬』の解説。芸術とは何かを「良いです」「アカンです」とラベリングすることではない、という趣旨の話も。
「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない———表現すべきものは自分を含む "我々" 、あるいは "他者" であるべきだ」という戒めも抱いています。
『河口湖曼陀羅』(1987)
私が「悟り」の状態にあったのは、せいぜい30分くらいのことである。それを過ぎるとそのメモの言葉たちは、みるみるうちに輝きを失っていった。数日経ったら、言葉はただの形骸になった。私は遺骨を並べるように、残された言葉を曼陀羅の形式の中に配置した———多くの葬式がそうであるように、ただ無感動に、粛々と。
そうしてできた『河口湖曼陀羅』という作品は、「自分にとってこの方向での最大限のものは作れただろう」という達成感はあった。と同時に「ここは行き止まりだ」という直感も働いた。この先に本気で進んでしまったら、もう二度と他者とコミュニケーションができなくなるような気がした。
typical(=典型的な)
私は「自分語り」に惑溺する青春をやめることにした。そしてこの世で実際的な仕事をする大人になることに決めた。
次に何をやるべきか。作品の素材は豊富なはずである。なぜならこれからは、この世から「私の意識」を抜かしたものすべて———森羅万象が作品の素材になるのだから。
"私" を除外することとアンディ・ウォーホルの話。
あの作品は、「ボクはキャンベルのスープ缶が大好き」とも「大嫌い」とも言っていない。
私は芸術というものは「一つのメッセージを伝える容器」という役割をなるべく拒絶すべきだと考えている。(中略)
芸術の「可能性の中心」はナンセンスにあり、なるべく努力してその高みを目指すべきだ———という私の信念は揺らがない。
ただ提示する。何も言わず、ただポンとキャンベルのスープ缶を提示する———こんな時に美術作品は最も強力にこの世に働きかける。
『キャンベルのスープ缶』の中にウォーホルがいないように、『犬』の中にも私はいない。よく私の『犬』の画想は平凡だ、前例がある、特に才能は感じられないといった批判があるが、当たり前である。それが当初からの目的なのだから。
『犬』以降の作品は〈ティピカル〉を目指して作ったという。
「最大公約数」「集合知」といった、「個性」の反対側にあるものだ。
止まった絵
画家は大雑把に言って二派に分かれる。「絵は動いているべきだ」という派と、「絵は止まっているべきだ」という派だ。前者は「表現主義的」、後者は「非表現主義的」と言い換えてもいい
筆を動かすスピードは速すぎないこと———それは「止まった絵」を描こうとする者にはとりあえず大切なことである。しかしもっと大切なことは、完全な安定性が得られるまで、下絵の段階で「構図」を練り上げることである。私は『犬』でそれも頑張ったつもりだ。そうして構図が「決まった」時、絵はピタリと止まる。
昔からある種の画家たちはそこに命を賭けてきた。北斎の有名な『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の波は確かに動的だが、永遠に止まっている。そこに価値がある。
おわりに
会田誠作品を初めて見たのは『スーパーフラット』という村上隆が編纂した画集で、高校生のときだったと思う。
(難しいことはよく分からないけどヘンな絵だなあ…)という感想で、当時よく読んでいた谷崎潤一郎と近いイメージかもしれない。
『河口湖曼陀羅』の死骸を並べる比喩はなんだか嬉しかった。
意味合いは違うかもしれないが、このnoteを書いているのも葬式のようなもので、そこにゴールはないんだけど終わるまで淡々と弔うしかないよねという感じで。
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