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感情化する社会
私たちは誰かに感情を提供しているだけではなく、感情を「提供される側」として、コンテンツ(や人)をジャッジする習慣を持つようになった。
「元気をもらえた」「涙が止まらない」「感動」「吐き気がする」といったフレーズは、いつごろから増えてきたのだろう?
「いいね」が義務になるとき
第1章 感情天皇制論
1983年、社会学者のホックシールドが人間の内面が資本主義に組み込まれている現象を「感情労働」として指摘した。
この労働を行う人は自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手の中に適切な精神状態 ——— この場合は、懇親的で安全な場所でもてなしを受けているという感覚 ——— を作り出すために、自分の外見を維持しなければならない。この種の労働は精神と感情の強調を要請し、ひいては、人格にとって深くかつ必須のものとして私たちが重んじている自己の源泉をもしばしば使い込む。
例に挙げられていたのは客室乗務員(CA)であったが、いまやほとんどの仕事の中に感情労働が含まれているのではないか。
「自ら望んでいる」フリを強制される場面についてジジェクさんが喋ってるやつ。内容はちょっとズレますが
第2章 物語労働論_webの「新しい労働問題」をめぐって
二次創作、商品レビュー⭐︎⭐︎⭐︎、ボーカロイドなど、多くのコンテンツが無償労働によって支えられている。web上での行動はビッグデータとして経済的価値を生み出しているが、これらはどれもユーザーが無償で提供しているものだ。
p63
「ユーザー」がフィードバック的に参加することで「コンテンツ」が成長し、あるいは再生産されながら、そのフィードバック行為は「無償労働」どころか自らお金を払う「消費」でさえある
p70
スキルや深度に関わりなく、webに何かを投稿した瞬間、それは無償労働のコンテンツと化す。そのなかで、人は「日々の行動そのものをコンテンツ化させられていること」にこそ気がつかなくてはいけない。
p73
こういった「自己表出させられる」環境のなかで、しかし、考えてみればたいていの場合、人は自己表出すべきものを持たない。ぼくもほとんど持たない。持たないにもかかわらず「自己表出せよ」と誘導される逆説としての近代がweb上にある。
この「自己表出させられる」で思い出したのが、村上春樹インタビューの以下の箇所
今、世界の人がどうしてこんなに苦しむのかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。(中略)
まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。
同じ本の中で、村上は夏目漱石の小説「坑夫」が好きだという話もしている。何かが起こって帰ってきても、主人公はとくに成長していない。それがとても素晴らしいと
第6章 機能性文学論
小説の「描写」が、現代では「めんどくさい」と感じる人が増えており、サプリメントのように「泣ける」「癒される」もしくは実用的な「学び」といった「機能」が求められている。
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かつてのように「文学」が読まれたときは、作者の自我と読者の自我は良く言えば共鳴し、悪く言えば作者の言葉に侵食され、あるいはだらしなく溶け合いもする。つまり小林秀雄がのちに私小説を形容して言う「なし崩しに自己を語る」という行為である。
このように「機能性文学の時代」にあって、「描写」が嫌われるのは、他人の自我の発露に触れるのが何より不快だからである。読者に対して作者が「感情労働」としての小説を提供してくれないことが「悪」なのである。
対して、自分の自我や自我以前の感情の発露については皆、ひどく、だらしがない。いまや小説家もそうでない人々も、TwitterやLINEや様々なSNSで一人につき一日いったいいくつの「なし崩しに自己を語る」ことばが文字化されているのか。そこで日々起きているのがすでに見た「文学」の口承化であり、見えない言文一致運動であることは前の章で触れた。
現在の文学や批評に携わる人間は社会から疎外されていないため、システムを外側から眺めることができないのではないかという話(例えばフランスであればイスラム教徒として暮らす人々のような)
成長しない主人公
第3章 スクールカースト文学論
鈴木翔の新書「教室内カースト」についての記述↓
つまり「スクールカースト」というシステムを精緻に分析し、それを「マズい」と思いつつ、しかしそれらを何らかの形で解体していく方策を仮説として提言するわけでもなく、その制度はそのままで、「個人」の水準で我慢するか、その外で塾や受験勉強に励むか、「引きこもれ」とはさすがに言えないから大検でもとれば、という「制度を批判しない解決」を示す。いわば下位カーストの者たちに「感情管理」を要求するのである。
貧困を社会システムの改善でなく、個人が自助努力をすることで解決せよ、という自己責任論と同じ構図である。
この章で著者は、朝井リョウの小説「桐島、部活やめるってよ」「何者」がシステムのメタ視点(=優位性)を目指しつつも壊す方向には向かっていないことを指摘し、同じくスクールカースト小説である大江健三郎の「セヴンティーン」が比較対象として取り上げている。
(セヴンティーンの主人公は、右翼団体に入った結果、学校のカースト上位に居た友人を従える立場になる)
第7章 教養小説と成長の不在
ゲーテの考える生物学的ビルドゥングは、原生物が内在する力によって個別の生物に「形成」していくものだが、多崎つくるは「父」が与えた「形式」に向けての「形成」をおこなう。ファシズム下の教養小説は国家が青年の「形式」をあらかじめ示し、そこに向けてビルドゥングしていくものだとすれば、『多崎つくる』の教養小説としての性質がより明らかになってくる。
「色彩を持たない多崎つくる〜」は歴史修正主義の話では?という読み解き。第3章で主人公が右翼になる作品が紹介していたが、どちらも瓶や容器のメタファーが出てくる。
「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。
「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当は誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
《きみにわれわれの思想をたたきこむのは、できあがっていた瓶に酒をそそぐようなものだ。それにきみの瓶は砕けず、この醇乎たる美酒は零れることがない。きみは選ばれた少年だが、《右》は選ばれた存在だ、いまにそれが世間の盲どもに太陽のようにはっきり見えるようになるだろう、それが正義なんだよ》
変化する定型文
第5章 文学の口承化と見えない言文一致運動
群が作者であり作者はその彗敏なる代表者に過ぎなかった古い世の姿は、今もそちこちに残り留まっているのである。
読者と作者が入り混じった結果、web上に「いわゆる読者文芸という名の口承文芸」が現れているという考察。柳田國男の文献たくさん出てくるんだけど、あんまり消化しきれなかった、。
民俗学については、こちらの動画と話がつながるかも
二葉亭四迷は文章が下手だったので落語の書き起こしから始め、それが言文一致になったというエピソードが面白かった。
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めっちゃ長くなった、、
上記でまとめきれなかった話↓
▶️ GoogleがAIにロマンス小説を学習させた結果、それらしい出力が出来上がるが、読む人間は「勝手に」深みや行間を読み取る。
▶️ 社会から「疎外」されていた者がいつのまにかシステムの中に「包み込まれる」のでは?と思ったこと(書籍内でそういう結論が書いてあるとかではない)