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続 心の風景 イヤダカライヤダ

イヤダカライヤダ。芸術院会員に推薦された際に辞退したときの弁がイヤダカライヤダ。
詳細は

・なぜ辞退したいか
---芸術院という会に入るのがいやなのです。
・なぜいやか
---気が進まないから
・なぜ気が進まないか
---いやだから

これが80歳近い文豪の言葉。まるで幼稚園児並みだ。なんて言うか、幼稚なのか老獪なのか。おそらく手のつけようのない偏屈爺である。
内田百閒の「百鬼園随筆」というのを読んでみた。
話のほとんどが借金に絡んだ話であり、文章の全体に愚痴が網羅されている。無愛想であり、我儘であり、思いつきであり、言い訳であり、屁理屈である。普通ならこんな本は、最後まで読まないうちにうんざりして途中で投げ出してしまうところだが、網羅された愚痴にはさらにユーモアが網羅されている。この大ダヌキの屁理屈に飲み込まれて、病み付きになってしまった。
借金をしに車で知り合い宅を訪れるが断られ、その代わり高利貸しを紹介され、電話してみると、同姓同名の間違いで、ようやく住所を突き止め尋ねると留守で、せっかく来たのだからと出かけた先を探し、そこを訪ねると入れ違いだったり、その間に使われた車代を考えるとこれまた借金がますます嵩んでしまうのではないかと、読んでいて心配してしまう。心配しながらもクスクス笑ってしまうのだ。
百閒はこういう言い訳をしている。

---借金運動も一種の遊戯である。毬投げのようなもので、向こうから来た毬をとらえてそのまま自分の所有物にするのではなく、すぐまた捕えた手で向こうに投げ返してしまう位ならば、、初めから受け取らなければ、良いのである。その余計な手間を弄(ろう)するところが遊戯ならば、借金も同じようなものだ。---

或いは借金を返すために原稿を書こうとするが、部屋に閉じこもると何も思い浮かばずただ時間ばかりが過ぎ、煙草を吸ったり部屋が寒いと言ってストーブを付けると眠くなったり、悶々とした日々を過ごすうちに髭が延び、小遣が無くなり、お腹の加減も悪くなり、期日は迫り、イライラしてきて、

---「一体、原稿を書くことを、小生は好まないのである。自分の文章で金を儲けるとはなんと言う浅ましい料簡だろう。」---

などと言い出す始末。どこからそういう言い訳を思いつくのか。
鉄道やタクシーの便も悪く、電話の普及もない時代の時間の使い方が、現代を生きる我々とは全く違う。しかし考えてみれば私が子供の頃の昭和30年代も内田百閒がこの随筆を書いた昭和初期も時間の感覚としてはあまり違いが無かったような気もするし、大学の教授であるにもかかわらず小市民的な生活感は、インテリだとか庶民だとかの差が、あまりなかったのかなとも思えるある種の安心感のようなものがあるのか。

私もイヤダカライヤダと、言えるようになりたい。


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