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子どもたちや親御さん方はみんな大切なお宝さんです
ご挨拶の言葉に代えて
国立大学医学部医学科卒の精神医療従事者にして、趣味でYouTubeとYouTube Musicに自作曲のミュージック・ビデオをアップしているKoki Kobayashiです。
すっかりご無沙汰していますが、お元気ですか?
私はこの一か月の間、潰瘍性大腸炎やリウマチなどの自己免疫疾患ならびに悪性腫瘍やヘルニアや脊柱管狭窄症や睡眠時無呼吸症といった私の持病の根本的な治療に専念していました。
その間も皆さまのnoteの記事は拝読していたのですが、なにぶん手足の関節に水が溜まって関節部位の骨が砕けるような病変を来していたため、拙記事を更新することが出来ませんでした。
しかしながらこの一か月間、ステキなnoterの諸兄姉の記事を今まで以上に数多く拝読することが許されまして、私も多くの知恵と知識を得る恩恵に与ることが出来ました。
同時に、拙記事にスキをくださった大勢の方々から、あたたかなご配慮と慈悲のお心を頂戴いたしました。
私の敬愛する素晴らしいnoterの皆様に、心から感謝して御礼申し上げます。有難うございました(*^_^*)
今日は「子どもたちや親御さん方はみんな大切なお宝さんです」と題して、愛する子どもたちや、日々懸命に子育てをしておられる親御さん方に対する私のリスペクトの想いを記したいと思います。
そして同時に、今日は特に失敗や挫折や無駄に思える道のりの中に道の味を見出す姿勢を意識しつつ、例によって長くなってしまって恐縮ですが、拙記事を記すことといたします。
それでは何とぞ宜しくお目通しくださいますようにお願い申し上げます。
世界は子どもたちから借りたもの
アイダ・B・ウェルズ(1862~1931)というジャーナリストが、子どもとその親御さんの関係について、こんな言葉を遺しています。
世界を大切に。
世界は、親から私たちがもらったものではなく、
子どもから私たちが借りたものなのです。
私たちは子どもより自分の方が長く生きているだけ人生経験が豊富だと思い込んでいるため、どうかすると「未熟」な子どもたちを「教育」したり「躾け」たり、或いは「訓練」したりすることばかりに汲々としがちではないでしょうか。
今春のお受験もピークを過ぎつつある今日この頃ですが、わが子の幸せを願うあまり些か過剰に子どもを「教育」したり「躾け」たり「訓練」したりする親御さんからは、このようなウェルズの観点こそ絵空事だと反発されそうですね。
子どもにとって、この家庭でこの名前でこの親の子として成長しているのは初めてのことかもしれません。
その意味ではなるほど子どもは未熟で経験不足かもしれません。
しかしながら、私が娘たちと向かい合いながら泣き笑いしつつ育児をしていますと、父親である私の方が子どもから多くを教わっていることに気付かされるのです。
それは子どもの持つ純粋な思いやりかもしれませんし、ひた向きな好奇心や旺盛な探究心や向学心かもしれません。
子どもそれぞれに持ち味は違いますが、こちらが子どもたちに無条件肯定の愛情を(認証を持って)忍耐強く掛け続けていますと、子どもたちは実に見事な花を咲かせてくれるのです。
それは必ずしも子どもが受験で志望校に合格することではないかもしれません。
「一流」とされる成功者の世界にわが子が飛翔することではないかもしれません。
時として、親にしてみれば「こんなにしてやったのに…」とぼやきたくなるような結果を子どもが引き寄せたように見えることもあるかもしれません。
そんな風潮が蔓延る今の時代だからこそ、先に取り上げましたウェルズの言葉を私は大切にしたいと思うのです。
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子どもは親の「作品」ではありません
世界を大切にしましょう。
そして、子どもたちを大切に愛しましょう。
世界は子ども達に託していく遺産であるとともに、
後世に生きるはずの子ども達から、親であるこの私が借りたものなのですから。
その想いを忘れずに、今日も子ども達との関わりに悔いの残らないようにしたいと私は思うのです。
「のに」がつくと愚痴が出る
相田みつをさんは、その著作である『生きていてよかった』の中で、私たちが人さまに対して「あんなにしてあげたのに…」と不平不満の心を持ちやすいことに注意を促しつつ、こんな風に書いておられます。
『のに』がつくと
ぐちが出る
親にしてみたら、子どもにこれだけ良くしてあげたのに、どうしてこんなことになるのかと呟きたくなることもあるでしょう。
しかし、わが子といえども親とは別の人格です。
子どもは親とは別の個性と才能と天分の持ち主です。
わが子が成長して自己実現していくプロセスがどのようなものになるのかをすべて見通せる慧眼の持ち主というのも、まずいらっしゃいますまい。
山田暁生氏は子どもの放つ煌めきについて、こんな風に記しておられます。
子供の光は夜空の星。
ぼけっと見ていたのでは、
見えない。
見つける方の力が衰えているのかもしれません。
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道草で初めてわかる道の味
いかがでしょうか。
子どもはある時期親からすると全く無意味なことや無駄に見える趣味にうつつを抜かして、無駄に道草を食っているようにしか見えないかもしれません。
道草については、臨床心理学の大家で日本に臨床心理士の資格を制定する上で偉大な業績を挙げられた河合隼雄・京都大学名誉教授のお説きになった『道草で初めてわかる道の味』という発想がありますね。
ひとの未来は未知に満ちています。
生きとし生けるものにとって、未来は変容し得る可能性に満ちた「未知」なるものであり、それは都市伝説的な運命論では推し量れない可塑性に溢れたものです。
言葉遊びのようですが、「道草」を食うことを通じて、ひとは時として「未知」の可能性に至る「道」を知ることができるのではないでしょうか。
「あの子にはあんなにしてあげたのに」というおとなの言葉は、子どもの未知なる可能性を時として殺してしまう呪詛の言葉となることを心したいと私は考えています。
相田みつを氏がおっしゃったように、「のに」がつくと愚痴が出ます。
そのように子どもを否定するような愚痴をわが子に向かって吐いてしまうなら、少なくともその瞬間、私たちは立派な「毒親」になってしまっていることに注意が必要だと私は思うのです。
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発達障害を持つ子どもを授かった親として
このようにお書きして参りますと、私が訳知り顔に子どもたちの肩ばかり持って、親御さんの苦労はとんと存ぜぬようにお感じになる方々もおられるかもしれません。
しかし、私も発達障害を持つ娘たちを今まで育てさせていただいたことで、幾ばくかは世の親御さん方のご苦労のほども偲ばれるようになりました。
今年小学校に入学する長女も、この春から年少クラスに上がる次女も、どちらも児童精神科医の診察を受けていますし、長女は療育手帳も持っています。
診断的には、長女は知能がグレーゾーンの自閉スペクトラム症かつ注意欠如・多動症、次女が自閉スペクトラム症とされています。その意味においては、私たち夫婦も、発達障害を持つ娘たちを育てる中で、様々な涙の谷間を歩んでまいりました。
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「お母さん」もかつては「少女」だったのです
わが家の場合で恐縮ですが、長女がこの世に生を享けた時から、周囲の多くの人たちの妻に対する眼差しが「お母さん、しっかりね!」一色に染まったことには驚かされました。
妻もついこの前までうら若き乙女だったにも関わらず、妻が長女を出産したことを契機として、彼女に対する周りの人々の多くの眼差しが「咎められることのない母親」ないしは「満ち溢れる母性愛」を要求するものに変容したことに対して、私は驚きを隠せませんでした。
かく言う私は男系家系の出でして、ただでさえ女児の育児というのは当初から当惑することばかりでした。
長女の感覚過敏や原始反射の欠如、様々な非定型の発達特性を目の当たりにして、私たち夫婦は療育センターや小児科医に相談を繰り返しながらも、次第に明らかになった「発達障害」という言葉の前に頭を抱えてしまうこともしばしばありました。
当時私たちの周りにいて妻に対して「母性愛的な育児」を要求して已まなかった方々とは、幸いにして私たち夫婦は今では関わり合いはなくなりましたけれども、この国では「お母さん」幻想とでも言えるであろう母性愛希求性が今なお強烈に広く信奉されているのだなと改めて実感させられたことでした。
今ではイクメンさんも増えてきましたけれども、まだまだお母様たちのワンオペ育児になってしまっているご家庭も多くありますよね。
お父様たちにはビジネスという仕事が差し迫っていましょうからそれも已むを得ない面もありますけれども、せめて彼の細君がついこの前まで「お母さん」ではなかったことに思いを馳せられたらと思うのです。
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完璧な親も子もいない~Good Enough Motherの意味すること
前節で私は「お母さんイメージ」、すなわちユング派分析心理学で言うGreat Mother Archetypeが女性たちの重荷となり得ているのではないかという私の推論の一端を記しました。
誰であれ人から固定したイメージを投影されながら生きることを強いられることはしんどいものです。
「子どもに対して『ほどよい子育て』をする『ほどよい親』であれ」と強要してくる他者からの投影に辟易した経験を持つ方も少なくないことでしょう。
ここでは『ほどよい』という言葉が、精神分析学で元々唱えられた"Good Enough"という言葉のニュアンスから乖離して用いられてしまっています。
英国の小児科医で精神分析医でもあったドナルド・ウィニコットが「ほどよい母親(Good Enough Mother)」という言葉を提唱することで言いたかったことは、母親という役割を担う女性が完璧である必要はなく、子どもの基本的なニーズに応えることこそが重要なことだと云うことでしょう。
ウィニコットは、母親といえども完璧にわが子の欲求に応えることは出来ない相談であり、時には失敗することもあると考えました。
ウィニコットの発想のユニークな点は、母親の持つこの「不完全さ」こそが、かえって子どもの現実世界に対する適応を促進すると考えたことです。
つまり、母親の(あるいは父親の)不完全さという「欠如」が、逆説的ですが、子どもが親を過度に理想化して同一化したり依存するプロセスから脱却することを促すのだとしたことが、ある意味でウィニコットの真骨頂だと言えるのです。
この世には完璧な親もいなければ、叩いても埃が出ないような完璧な子どもというのもいないのです。
今こそ高く評価されるべきウィニコットの発想
言うまでもなく私はウィニコットにお会いしたことはありません。しかしながら、精神分析学や分析心理学の訓練を受けた学徒のひとりとして、ウィニコットが「ほどよい母親(Good Enough Mother)」という術語を提唱することで観ていた世界観を推し量ることは出来るように思います。
ウィニコットのこの観点からすると、母親がすべてを完璧に行おうとするのではなく、子どもの基本的な必要(needs)に応えることを重視して、自他ともに適度な失敗を許容することこそが大切だということになりますね。
こんにちのように多様な情報と価値観が錯綜している世の中では、何を規範として育児に当たれば良いのか当惑することも多いですね。そんな中で、ウィニコットの「ほどよい母親」という発想は、親自身を「完璧な親」という幻想から解放することを教えているため、育児ストレスを軽減するのにも役立ちます。
その上、親の不完全さという「欠如」こそがかえって子どもを社会化するのに一役買うというのですね。
両親が完璧な親ではあり得ないということが、不完全な親と不完全な子どもとの相互的な愛情に適度な潤いと境界線を与え、親子の関係を良好なものとするのです。
私はウィニコットの学派を標榜する者ではありませんが、ジグムント・フロイトやジャック・ラカンの説いた専制的超自我という心の鎖から親子を解放する思惟のひとつとして、ウィニコットのこの言葉は今まさに再評価されてもいいものではないかと思うのです。
子どもたちや親御さん方はみんな大切なお宝さんです~結び
今日は冒頭にお書きしたように、久しぶりに長い記事となりました。
論旨に冗漫な箇所が散見されますことをお詫び申し上げるとともに、最後までお読みくださいましたあなたに心から感謝いたします。ありがとうございました(#^^#)
今日はウェルズの言葉を皮切りに、まず子どもたちに対する私のリスペクトの念を記しました。
それに比して、親御さん方に対する私の敬意の表し方が理屈っぽいものになったことには、不完全な私も改めて反省しきりです(^^;
そこはそれ、ウィニコットの言葉に倣って、私も自分の至らなさという「不完全さ」を自らは許そうと思います。
私にとっては、今をひた向きに生きる子どもたちや親御さん方はみんなお宝さんです。
最後になりましたが、時には失敗したり挫折したりしつつも、懸命に生きておられるお子さんたちや親御さん方のことを思いながら、ヘッセの次の言葉を記して拙文を閉じることといたします。
自分の道を進む人は、誰でも英雄です。
――ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)
あなた様の上に天の豊かな祝福と恵みが限りなくありますように(*^^)v
Koki Kobayashi拝
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