子どもに温かい眼差しを注いで愛着を確かなものとしましょう!~虐待の連鎖を防ごう
ガンや膠原病を初めとする難病の数々に負けないサウンドクリエイター、Koki Kobayashiです(*^-^*)
こんにちはっ(*^^)v
あ、もう「こんばんは」ですか(^^;
今日は「子どもに温かい眼差しを注いで愛着を確かなものとしましょう!~虐待の連鎖を防ごう」と題して、子どもが精神的に健康に育つ秘訣の一つである「子どもの承認欲求を充分に満たしてあげる」ことについて、あなたと分かち合いたいと思います。
それでは、どうぞよろしくお願いしますね。
親子の間の愛着の大切さについて
愛着理論とSNS依存~愛着形成が不十分だと依存的になることも…
愛着理論(Attachment Theory)という言葉は、育児をしている方や育児支援に携わっておられる方々の間では、すっかりお馴染みの言葉となってきたように思います。
まず、近年の育児や療育で強調される「愛着(attachment、アタッチメント)」について、その基礎をざっとおさらいしておきたいと思います。
「愛着理論」は、心理学者のジョン・ボウルビィによって提唱された理論です。
この理論は、幼児が親などの養育者との間に形成する親密な関係(=愛着)というものを確かなものにすることが、子どものその後の心理的・社会的な発達において支えとなるという理論ですね。
この愛着理論と関係がある学術研究は数多ありますが、その中でも私が重視しているものに、自己愛性パーソナリティ障害論の基礎を為す精神分析医ハインツ・コフートの研究や、カトリックの精神科医であられた土居健郎先生の「甘え理論」といった古典的な研究成果があります。
↑今日はこれについての詳述は避けますね。またながーくなりますから(笑)
幼児期に養育者との間にしっかりとした愛着を形成しておくと、その子はその後の人生の困難や課題に果敢に立ち向かいやすくなります。
しかし、愛着形成が不十分ですと、最近のインスタ映え依存やSNS依存にみられるような「自分の中にぽっかりとした空虚な穴があって、それを埋めるために他者からの絶えざる認証の眼差しを必要とする」依存症状態に陥りやすくなります。
そうしますと、どうしてもレジリエンスや逆境に強く雄々しく立ち向かう底力が脆弱になりやすくなります。自分の中に実存的な空虚さがありますからね。
そういう状態にある方は、重い病気や失業や大きな困難や苦難と直面しますと、どうにもへこたれてしまい、その逆境に果敢に挑む気概が生まれにくくなってしまうのです。
私は、インスタやSNSをしていると自動的に他者依存的になるなどと云う暴論を唱えているわけではありません。
インスタやSNSは、わずかながらですが、私もしています。
SNSを活用してビジネスをしている方々もおられれば、SNSを通じた自己開示や他者との交流などを通じて、傷ついた自己愛を修復する試みをなさっている方もおられます。
ですから、ネットやゲームそのものが「悪」とか「病をもたらすもの」だとは私は考えていません。それを通じて自尊感情(self-esteem、自己肯定感とも訳されます)を高めている方もいらしっゃいますからね。
SNSが悪いわけではなく、ネットやゲームが悪いのでもなく、そこに耽溺して依存し、ネットやゲームやSNSの中にしか自分の居場所がない嗜癖状態が精神医学的には問題視されるのです。
リアルな世界とつながっている上で、ネットワークを展開するのは素晴らしい作業なのですが、リアルな世界との接触を喪失しながらネットに溺れていますと、その営為には「依存症」という診断名が下る可能性があるのですね。
さて、ここまで私は愛着というものをきちんと定義しないまま、愛着の障害が決して他人事ではないことを掴んでいただくために、敢えて愛着理論の周辺についてイメージ的にお話いたしました。
次に、どのようにして養育者や親と子どもとの間に確かな愛着が築かれるのか、愛着形成とはどういうことなのかについて、私なりにまとめたいと思います。
この話は、トラウマに悩む人や複雑性PTSDに苦しむ方、毒親に難渋されている方、そして整形手術に依存なさらずにはご自分のイメージを保てない方、そして摂食障害の方や育児に苦悩される方々には参考になり得るお話だと思いますので、どうぞご一読くださいませ(*^-^*)
愛着を育てる養育者(親)の温かい眼差しの重要性
愛着の大切さをお話しするのに、きちんと説明しようと思いますと、またぞろ長ーくなりますので、ここは私にとっての課題である「簡潔にお書きする」作業に今から挑戦したいと思います(^-^;
愛着理論を提唱したボウルビィによりますと、幼児は養育者を「安全基地」として認識する本能的な欲求を持つとされています。
そして幼児から見て、養育者が確かに心安らいで欲求が満たされるような「安全基地」だと認められますと、子どもは養育者の近くで安心感を味わいながら探索活動をして、あちこち見て回ったり、やんちゃするようになります。
それはわが子から親(養育者)に向けられた愛着の証なのです(*^-^*)
愛着形成とはごく割り切って言ってしまえば、そういうメカニズムだと言えましょう。
愛着の関係が養育者(≒親)と形成できたかどうかは、その子の人生に非常に重大な影響をもたらすことが明らかにされています。
ですから、愛着関係をしっかり育てるためにも、わが子や子どもたちに温かい眼差しを向けつつ、養育者が子どもを「保護的に育てる」ことは、とても大切なことになるのです。
クリスチャンドクターの児童精神科医として、主に自閉症の治療とケアの啓蒙活動に奔走された佐々木正美先生の著作は、愛着関係を形成するために子どもにどのような眼差しを向けたらいいかについて、丁寧にかつ解りやすく書かれていますよ(*^^)v
私は佐々木正美先生が仰ることのすべてに同意できるわけではないのですが、佐々木先生のご本に学ぶことは、発達障害に関わる者として必須のことと思いまして、ずいぶんたくさん拝読させていただきました。
佐々木正美先生のご本の中で比較的プラクティカルなことが書かれている本を一つご紹介いたします。
佐々木正美著『発達障害の子に「ちゃんと伝わる」言葉がけ』(すばる舎、本体1400円+税)
この本はおススメですよ。
一問一答形式で発達障害児の育て方について解説してありますので、育児でお悩みの方にはぜひご一読をお薦めいたします。
私もこの本を毎週のように読み返しては、自らの日頃の育児態度について反省しています( ;∀;)
愛着を破壊する「毒になる親」は、子どもの承認欲求も破壊する
スーザン・フォワードが提唱した「毒になる親」の何が厄介なことかと言うと、その一番は「毒になる親が子どもとの間に健全な愛着関係を築くことに頓挫していること(あるいはそもそも子どものことをひとりの独立したかけがえのない人格として尊重する意識が欠落していること)」ではないかと私は愚考しています。
ひとは誰でも生まれつき承認欲求を持っていますよね。
私もうちの娘たちから投げかけられる「ねぇねぇパパ、○○ちゃん(自分の名前)はねぇ、△▽できたのぉ~っ。みてみて、わたしすごいでしょう!?」という承認欲求の嵐と丁寧に付き合う毎日を送っています。
勿論、時間の許す限りにおいてですよ(^^;
しかし、五歳と三歳の娘たちは、今まさに知能と心の成長や発達の臨界期を迎えているところですから、娘たちの人生の基礎をつくるうえでは今が本当にかけがえのない時期なんですよね。
思春期や児童期に荒れてしまう子の特徴の一つとして、親や養育者から臨界期までに十分に温かい愛情のこもった「見守る眼差し」を向けられていないケースが多いことが挙げられましょう。
こうした子どもたちは、愛のこもった眼差しに飢えています。自分だけを大事に思ってくれる優しい温もりに飢えているのではないかと私は思います。
旧約聖書の中の「イザヤ書」の中に、神ヤハウェから預言者イザヤに託された一般庶民へのメッセージがあります。
それは神から人々への次のような簡潔なラヴレターです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
実はこの聖書の言葉は、こんにちのキリスト教会では非常に多く引用されているものなのです。
それだけ、クリスチャンたちも、確かで自分を決して裏切ることのない慈愛の眼差しに飢えているということなのでしょう。
キリスト教会の内部に限らず、こんにちの社会では、どうもこの「温かい眼差しでひとを見る」という意識が希薄になってきているように思いますが、いかがでしょうか。
勿論、毒になる親にもご自身の言い分というのは存在しますし、そこまで子どもが親のアイデンティティを否定するのなら、今度は「毒になる親」の子どもが「毒人間」となってしまうのですね。
もし私たちが、他者である「親」の存在価値を頭から否定するに終始していたら、それは毒になる親が私たちにして来たことと同じことを、今度は私たちが親に対してしていることに他なりませんから。
それは「否定」の力学ですね。
これこそ、毒の家系の負の連鎖の本質ではないかと私は思います。
「毒になる親」は、愛着を破壊するばかりか、子どもの承認欲求も破壊します。
この点に、いわゆる毒親サバイバーの苦悩の本質の一つがあるように私は思います。
児童虐待の連鎖を防ぐために
ひとは無償の愛に飢えている
児童虐待の連鎖を防ぐためには、幼少期に私たちが親から与えられなかった無償の愛の眼差しの働きを、親からではなくて、ほかの何かからによって取り戻さねばなりません。
従いまして、毒になる親を子どもが乗り越えて自分の生きる道を見出すことによって、私たちはたとえ親に愛された記憶に乏しくても、どんなに親に過干渉され支配され殴られ蹴られ叩かれ、場合によっては私のように刃物で顔を刺されたり、私の妻のように実母から包丁を投げられて殺されかかったりしたとしても、私たちはわが子に慈しみの眼差しを注いで、子どもをあるがままで抱きしめて愛することができるようになると私は思います。
スーザン・フォワードが言うような、毒になる親に手紙を書いて挑戦する方法には、私は賛成しかねます。
その方法はアメリカではいいのかもしれませんが、イエ社会の日本では新たな禍根とトラウマと傷を残すだけに終わることが多い印象がありますからね。
愛着を破壊する「毒になる親」の真似を私たちがする必要はありません。私たちまで親のような「毒になる(毒を撒く)人間」になってしまう必要はどこにもないのです。
「毒親」にこだわる時期はあって当たり前
毒親というものにこだわる時期、段階はあって当たり前だと私は思います。
そのプロセスにおいて、「私の親はどうにもこうにも厄介な人なんだ。私には愛の眼差しは注がれないんだ」と諦めることには痛みが伴います。
精神分析学の祖にして神経科医であったジグムント・フロイトの説にもありますように、その悲しさや寂しさをしっかり受け止めて「親が残念な人であることを明らめて(明らかにして)、その上でこの親子関係を受け止め、親の濁った眼差しに囚われている現状を打ち破る」覚悟と諦念が必要なのです。
そこのプロセスをしっかり悲しみ抜いてスッキリするためには、どうしても支えとなる存在が必要になります。そこに臨床心理士(≒公認心理師)や精神分析医の存在理由の一つがあると言ってもいいかもしれません。
悲哀の仕事という「かなしみを悲しみ抜く」過程を支え抜く何かがあれば、たとえ「『毒になる親』の子」であっても、愛着が不十分な状態で育った人であっても、次世代に児童虐待の連鎖をしないで育児ができると私は愚考いたします。
それは決して容易な道ではありません。
まずは、私たち自身の心の奥に潜む「内なる子ども」の傷や哀しみや悔しさや孤独を丁寧に優しく私たち自身の手で包み込みながら、自分に向かっていたわりと共感の言葉を掛けることからはじめてみてはいかがでしょうか。
かく言う私自身も、今でもセルフケアの一環として、毎日のようにタッピングや気功法(特に内気功こと練功)、マインドフルネスを行っているのです。
毒親サバイバーと呼ばれる人たちにとって、あまりにも苛酷なその生い立ちの辛さや悲しさや愁いや絶望を生き抜く時期はあって当たり前です。
問題は、毒親サバイバーやトラウマの被害者が、どのようにして生きるよすがを見出して、自分の人生を自分の足で歩み出す底力を手に入れるかということなのではないでしょうか。
子どもにも自分にも温かい眼差しを向けましょう
私はいま自分に温かい眼差しを向けて労わります
私はいま自分に温かい眼差しを向けて労わります。
なぜならば、私は今日「短く簡潔に記事をお書きする」という自分の課題に果敢に挑戦して、あぁ、見事なまでに玉砕してしまったからです(笑)
それでも、私は自分のことを嘲笑はしません。
私を嘲笑する人なら、親や親類を初め、世の中にはたくさんいますから。
私までその一味に加わることはありますまい(*^^)v
生きるためには、生きる支えとして、確かな愛着を必要とするのです。
親御さんや養育者による温かい眼差しに恵まれて愛着を確かにお持ちの方も、そうではない方も、今からでもまずご自身の中の「内なる子ども」に優しい愛情のこもった眼差しを注ぎませんか?
そして、そのような営みを日々の慣わしとしつつ、子どもたちに穏やかで温かい愛のこもった眼差しを注いでいただきたいと切に願います。
このような愛着を形成する温かい眼差しには、究極的には、この愛と優しさの冷え切った世の中を変えていく根源的な力があると私は考えています。
愛着はあなたも子どもも支えて癒す杖となる
ガンや膠原病や潰瘍性大腸炎や十二指腸腺種といった、いずれは命にかかわる手術を必要とする難病にわが身が侵されるまで、私は子ども食堂の運営にも携わっていました。
身も軋むような激痛をこの身に与える病魔と向かい合うために、子ども食堂の仕事を協働することは現在は差し控えています。
私はよそ様の子どもたちにもよく懐かれますし、私自身も子どもたちのことが可愛くてなりません。
しかし、実は私がこうなったのは、精神分析家になる修行のために、私自身が「教育分析」というセラピーを日本とアメリカで受けてからのことなのです。
それまでは、私は子どもというものがとても苦手だったんですね。
教育分析を異国の地で受けたことで、私の情緒や思考はかなり西洋近代自我の洗礼を受けることになりましたし、ポストモダニズムの洗礼も濃厚に受けました。
そういう私にとってのイニシエーション(通過儀礼)のプロセスを経る中で、私は心理的な「親殺し」という凄絶な体験もいたしました。
私は悲しみを悲しみとして悲しみ抜きましたし、親や境遇に対する怒りを怒りとして怒り抜きました。
それなしには、私の自我意識がしっかりとしたアイデンティティをもって安定することはありませんでした。
でも、そのような試練を逃げずに通り抜けたら、いつしか私は子ども大好き人間となり、子どもたちもまた私に懐いてくれるようになったのです。
ですから、私自身の体験も通じて、私はあなたに伝えたいのです。
もし、あなたが愛着の問題でお悩みなら、どうか信頼できる支え手を見つけて、悲しみや怒りを味わい抜いてくださいませ。
それは大変な作業になりますから、信頼できる臨床心理士(公認心理師)や精神分析医についてもらってくださいね。
そして、いつもあなたとともに生きて来て、どんなに時にもあなたを見捨てず見放さずにあなたとともにいてくれた「あなたのいのち」を労わって差し上げてください。
そのようなプロセスを通過しているうちに、子どものやんちゃぶりも可愛く思えるようになりますし、子どもたちからも懐かれるようになって、子どもとの間に確かな「愛着」が形成されていくのです。
そのような子どもとあなたとの愛着は、あなたのことも子どものことも癒して支える杖ともなり得るのではないかと私は思います。
結び
今日は、「子どもに温かい眼差しを注いで愛着を確かなものとしましょう~虐待の連鎖を防ごう」と題して長ーい記事をしたためました。
私は心からあなたのしあわせをお祈りしています。
どうかあなたの必要が満たされて(お米もね!)、必要な癒しとあたたかな支え手が与えられますように。
あなたのご多幸を切に祈りつつ。
長文の記事をお読みくださいまして、本当にありがとうございました!
感謝いたします(*^_^*)
Koki Kobayashiがお届けいたしました(*^^)v