見出し画像

すべては無常と知る時 そこに“わたし”は何を投げ込みたいのか

目に見えない領域が 現実に与える影響から苦悩を 生じさせているように感じる時、それらは 目に見えないから対処出来ない、分からない、だから この苦しみは 終わりがない…と考えがちです。


目に見えない領域だから 「形として無い」様に見えても、確かにわたし達はそれを感じています。

「その人のその時の意識の状態」「思い癖」「ものごとの捉え方、展開のさせ方」「また、思い込みや決めつけ」…などによって

自分自身の目に見えない領域に自らも変化を生じさせているのです。そして それらは わたし達の心身へ 感情へ、また現実へと その結果の事象は生じて来ます。

もやっとした違和感、わだかまり、なんだかスッキリしない…などが生じ それらに気付いた時は 早目に対処し払拭させて行けるとよいのだけれど、

あまりにも日々、現実 目の前に展開される人、もの、ことに関連する「やらなければならないこと」に自分の時間を奪われてしまうから そこに意識を向けられないで居る人が少なくないようにも見受けられます。

そして 目に見えない領域のものが 何らかの不具合を生じさせている、…と 気付くと、目で見て それを確かめたくても それらを「形」として見つけられないからこそ 不安が募り 混乱を呼んでいたりもします。

⿻ ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ ⿻*.·

それぞれに それぞれが
そのままありのままで在る…とは

一人一人 色が違い、香りが違い、温度(熱量)も違い、思考・意識に違いがあり、そして 時間を生きるからこそ それらそのものも変化変容を続け 一つの形に留まることは無く 意識の展開の速度や 選択する道や辿り着きたい場所にも 一瞬一瞬に個々に違いが生じています。

だから自分らしくあって そのままの自らの「個性」のままであって良い。

個々が求めるものさえ 時が過ぎれば それぞれに 自然に移り変わって行き、感じ方はそれぞれだから それは当然と言えば当然で、みながおんなじにはなり得ません。

違いある人と人…個と個…は 「時間」の中で 関わり 接触し合うことで 何らかの影響を受け合い 与え合っています。

刻々と現実になにかが生じて来る現象でさえ 「時間」を生きること自体、「時間を経てゆくから 何かが移り変わる 変化」「何かと何かが関わることで生じる化学反応」…をエッセンスにして時間の過程を経ているのです。

それは 「時間」に対して
人であったり、物事であったり、場とか、空間であったり…時間を生きているからこそ、それらが 刻一刻と 個々のエネルギーの変化が投じられ 何らかの事象が生じては消えていく展開があります。

いわゆる化学反応のようなことが 瞬間瞬間、時間経過の中で全ては展開され 変化は生じている。

その、流れる時間の一点で交わったとしても 単にその点で交差したに過ぎなかったりもするもので その交わった後、次々と人であっても物事であっても、場や空間であっても 「時間」が 変化成長、衰退をも促す形をとっています。

そこに携わる人たちが そこに前向きな思念を投げかけるのか、そうでないか‥によっても 展開は違って 結果もそれぞれに変わってゆくものになります。

それでは…
すべて…ものごと…現象…は 必ず絶えず変化し続けるものだと 分かっていて 一つの形に留まるものは無い、…と知っている状態だとすると…

その「時間」の中に…移り変わってゆくものの一つとしてのわたし…は どんな変化をして行きたいでしょう。変化成長し続けている“わたし”を投じて行きたいのでしょう。

前向きな変化を投げかける?そうでない?

一瞬一瞬に変化はなされていいます。…だとしたら どんなものを個々は「そこ」に投げ掛けてゆくのでしょう。

今や 人それぞれ自由意志による「選択」によって
自分自身が「望むもの、進みたい道」を選んでいるはずなので、何らかの「困難(ネガティブ)に見える試練」が生じたとしても、それらを捉え 乗り越えてゆこうとする状態になっている人たちは多くなって来ているんじゃないかとも感じられます。
( *´ㅅ`)⁾⁾ウンウン

「すべては生まれ生じては消えてゆく」「すべては絶えず移り変わっている」「変化しないものは無い」そういった真理の元 わたし達自身でさえ生じては消えていくものであって、わたし達から生まれて行くものも同じような時間経過を辿っています。

…とすると
“わたし”はそこに どんなものを投げ込んで来たのでしょう。だから“今のわたし”となっているのでしょう。

そして この一瞬からどんなものを投げ込んで行きたいのでしょう。どんな未来が創造されてゆくのでしょう。



いいなと思ったら応援しよう!