目に見えないものは ほんとうに〝存在し無い〟のか…(隠された信念システムに気付く)
〝不快〟だと感じるものに触れると自分のフィールドに『ネガティブな感情』を呼び込み『自分の氣』を下げることに繋がってきます。
今、に自分が気付いたり自ら意識的に意図すれば
それらはその逆の状態へも変換出来る。
生きる限り感情に触れるものが無くなることはないよね。何かに触れることが不快な方向へ感情を誘われてるなぁ~と感じる時…
それらを自分の世界に引き込んでしまってることが自分とそれらを紐づけてしまってる…と気付きが起きてきます。
だから
自分の感覚の状態が自分の次元を下げたり上げたりすることに繋がっていて 心地の良い状態と 心地悪い状態がその都度現れては消えてゆく…
…そんな
感情の波に触れるような状態は実は自ら作り出しているのでは?とも 感じられます。
どんなものを目にしようとしているのか…、何を積極的に感じようとしているのか、また何を無意識に感じ取っているのか、
…は 後にそこから紐づいた世界を創る様に 経験が積み重なると浮き彫りになって来ますね。
意識せず自分が目にするもの耳にするものを受け取っている様にも見えますが、実はそれらは それまでの経験は自身のプログラムとか信念システムが引き寄せているようにも感じられます。
現実にネガティブに反応するのも ポジティブに反応するのも、最初に受け取るもので違ってくるから、
どの様なものを自分が受け取っているのかを一つのパターンとして意識的に認識出来れば、意識的な選択次第で自分の気分も変えることができる、
…とも言えます。
『心地よい』意識でいることを今…に心掛け、自らを省みて 問うて 選択する。
ただ 単に たのしい、心地良い、良い悪い、善悪、に囚われるのでもなく今 何が起きているのか 淡々と観察出来ると…それらを踏まえ どんな未来を創造して行きたいかの意図が、今の選択を助けることが出来ます。
例えば『善』に触れて行くことを選択すると対極にある『悪』を敵視し見続けてしまうような未来が想像出来ます。今の自分の感覚が何処に向いているのか、に気付けると、そこから転換出来る選択が生まれてくるので、新たな世界の扉を開く事も出来るのですよね。
今、どんな自分で在りたいのか。…を常に自分に問い続ける。
物事の深い部分を観る、観ない、…は自由。そこで真理のカラクリを知ろうとすることを放棄すると『分からない状態』を招き『分からない』…が『それが存在し無い』ことになり、
物事を観察することが出来て、それに気付けたら、その何かを生成される仕組みを確認出来て そのシステムを手放せたり変容させることが出来る様になります。
これが、いわゆる目に見えないものを『手放す』方法で
そのものを捉え、在ることを認め受け入れる事が、
『(見えないから)分かり辛い捉え難かったもの』を、変容させたり手放す…ことが可能になって来ます。
この世に生まれてから経験してきたことが心の内側に秘められたプログラミングの一部を作ることになっていて、ある時点で習得した、いわゆる観念とか思考、信念等のシステムが、現実に広がる世界を創り出していることになっているのだけれど、
経験を重ねると、自分の目の前の現実を創り出す仕組みが自分の内側に存在している、…と気付き、それらに 気付けるキッカケが、いわゆるネガティブな出来事である事が多い
ですね。
そして
単にネガティブな出来事、で終わりにせず、前向きな未来を創造するための出来事だと捉えられれば、それらに傷付く必要もなく、新しい未来を築くための出来事に変わってゆくことも出来ます。
『手放す』とは
捉え難く 認識し難いものから 目に見えない心身への深い侵襲へと作用しないように、その作用を止めるための作業
です。
それらが存在していることを認め 捉えることが出来るとそれらを変化させたり手放せたりも出来る。
自分の意識が捉え難いものに 気付いているか気付いていないのか…
これは 生きるのにその人の意識が 目覚めているか 眠っているのか…にも置き換えられます。
だからその人の世界にそれらが まるっきり存在しないことに繋がってくる。けれど…
何らかの不具合が現実に現れ〝不快〟を捉えられるとそこの仕組みがどうなっているのか…の探索が始まります。
目には見えない 認識し難いものを捉えているか、捉えていないか…では、その後の自分自身への影響とか 未来への展開が大いに違ってくる
ようにも感じられるのです。
『無い…とは 本当に無い…?』のか?
見ていない、見ないから 存在しない〝ものであったり、システムであったり〟
通常
物質として形にならないものは見えにくい。だから捉えることは難しい。そして『分かる、認識する』ことを難しくさせています。
更に
『本質は 見えていないけれど在る…』だから 翻弄され苦悩する。
在る…ということに気付けていないから
気付くことは難しいのです。そして分からないから〝苦悩〟が生まれたりします。
知ろう…とか 分かろう…理解しよう…何故なのか探ってみよう…こういう意識は…根気が必要で時に孤独に身を置く必要も出てくるけれど、
深く物事を観ようとする心がそれらを捉える時、それを手放し、変容させるか、また、自分のフィールドに引き込むか…それらを選択出来る…ということに繋がります。
意識が眠っていると、『目覚める…』って感覚自体が『無い』状態を創っている。だから自ら眠っていることにも気付けない。
眠っている…ということは幸せなのか
目覚めて生きることが 幸せなのか…
眠っている人達が多く生きる世界で目覚めて生きることは生き難く、どうしても違和感を感じると不快を引き寄せやすい。
けれどこの『違和感を感じることで生まれる 不快』…でさえ『そこに在る、のに気付いていないのだから〝無い〟状態を世界に生きている』…と認識出来れば…理解しようとする環境が生まれない世界に生きる人達に対して『不快や怒り』を生む必要がなくなってきます。
目覚めているのか眠っているのか…で世界と世界は触れ合えなくなるのですから…。
これは それぞれが選択出来て それぞれの認識の違いが生んでいる現実がある。…そして どちらも間違いではない。
目に見えないものを捉えているか、捉えていないか…で 認識が大きく変わる。
人はそれぞれの経験をその肉体を持ったそれぞれの立場(役割)に立つことで経験として学び、認識出来るものはそれぞれの肉体を持って人と生きるからこそ得られてきます。
眠っている人達が多く生きる世界で目覚め生きようとするとまるで目覚めて生きることが間違いかのように感じさせられることがありますが、
けれど、目覚めて生きることを恐れ、不快感が生じるのに感じようとせず生きること自体が心や身体に無理を大きくさせてしまうようにも感じられます。
目に見えないものを見ようとして生きるのか、…は その人の選択であり、自由。
…なのですよね。どこまでも…どう自分が在りたいか…なのだと思います。
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並木良和さんが《(意識を)目醒めて生きる》ことに対して分かりやすく動画を配信されています。どうぞ参考にしてみてくださいね。
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