カレーを遊ぶ!?
※こちらは、【カレーの学校 Advent Calendar 2022】12/13の投稿です。
読まなくてもいい前置き~この一年間のカレーシーンを振り返る
こんにちは。京都4期の小西秀和ともうします。前回noteに書いたのが、なんと一年前。なんとまあ、一年のはやいこと。というか、この一年noteに何も書いてこなかったことにびっくり!日記じゃないけど、真っ白なノートにはさみしさがある。
カレーの学校を卒業してから五年半。年を追うごとにカレーからの距離が遠ざかっている。カレーの学校に入学したときの熱は冷め、ときどき思い出したかのようにカレーを食べ、忘れたころにカレーをつくる一年だった。とは言え、これだけは忘れたことはない。
水野校長はかく語りき。
カレープレイヤーになろう!
卒業したての頃は、それこそカレー表面の油が熱々でギラギラしているようなカレープレイヤーだった(かもしれない)。だけど今となっては、冷めて固まった油が白くにごっているような私。そんな私はカレープレイヤーとは到底言えないだろう。
そもそも、プレイヤーって、なんだっけ?
カレーの学校の記憶をたどってみる。そう言えば、カレーはコミュニケーションツールって言ってたような。それくらいしか思い出せないぞ‥‥ヤバイ。う~ん、この一年、カレーでコミュニケーションしただろうか? ほとんどして何もしていない。
だけど、一年に一度のこのアドベントカレンダーはコミュニケーションツールになっているはず! と、自分で自分を慰める。ここは私とカレーをつなぐ最後の砦ってことにしよう。一年ぶりにカレーについて書くことが、プレイヤーとして首の皮一枚でつながっている状態だ。
「ゲーム(game)」と「プレイ(play)」
先日、カレーとは縁遠い「数学」に関する著作を多くだしている方の講演会に行ってきた。独立研究者の森田真生さんだ。
講演会「遊びながら考える」のフライヤーには、こんなことが書いてあった。
おもしろかったのは、「学校とゲームは同じ」という話だった。そもそも、ゲームは①時間や空間が切り離されていて、②ルールがあって、③競争原理が働く、ものであると定義できる。学校もまさに①社会から時間や空間が切り離されていて、②校則があり、③成績がつけられる。
だから、親が子どもに向かって「ゲームばっかりしないで勉強しなさい」と放つ言葉は、実は間違っている。ゲームも勉強もルールを守るという同じカテゴリーなんだから。それを言うなら、「ゲームばっかりしないで、遊びなさい」というのが正しいのでは? という、刺激的な展開だった。
学校が代表的な例だけど、現代は日常生活の隅々までゲーム(ルール)が浸透している。そこを逸脱するのがプレイ(遊び)だ。プレイ(逸脱)があるからこそ新しいルールが生まれ、ゲームがおもしろくなるという関係性があるとのことだった。(と、私は解釈している)
親は子どもに向けて「勉強ばっかりしないで、あたらしくルールを生み出すような遊びをしなさい」というのが、今の時代に求められているのかもしれない。
ここまで読んだカレーの学校卒業生は、この言葉がずっと頭の中で響いてたんじゃないだろうか?
水野校長はかく語りき。
カレープレイヤーになろう!
カレーというゲームを遊ぶ
カレーの学校は、ある意味カレーのルールを学ぶところかもしれない。だけど、そこがゴールじゃなくて、水野校長はルールを突き破って遊んでくれよ!と、卒業生に呼びかけているんだと思う。そうすることで、カレーというゲームがもっと、もっとおもしろくなるんだから。
水野校長は常に遊んでそうだけど、カレーというゲームを遊ぶことは、なかなかハードルは高い。カレーから逸脱して、よりカレーというゲームをおもしろくするなんて、自分にはできるんだろうか? カレーを食べたりつくったりすることは誰にでもできるけど、自分自身がカレーを遊ぶことってどんなことだろう?
そう考えたら、いま流行りのスパイスカレーも、昔ながらのカレーうどんも、そもそもインドからイギリスに渡り日本に伝わってきたカレーだって、ある種の遊び(逸脱)から生まれたんじゃないだろうか?! そんな大層な遊びはできないけれど、遊びは与えられるものじゃなくて、自分からたのしむものだ。来年の自分に託すというのもなんだけど、来年のアドベントカレンダーではカレーを遊んだプレイヤー報告をできたらいいな。(おしまい)