手間をかけるという美学
結婚してオシャレに疎くなって以来
私は白いシャツが一番のオシャレだと思うようになった。
白は合わせ方次第で少しフォーマルにも
カジュアルにもどちらにもできるからである。
合う相手に合わせる必要もなく、
襟付きの白シャツのシワをしっかりと
伸ばしておけば
いつでも服に悩むことはない。
そんな風に思っている。
だが、そんな白シャツにも大きな欠点が一つある。
それは汚れがすぐに目立ってしまうことである。
これは白い服のサガであろう。
汚れやすいことは承知で白を着て
それでもなお汚さずに綺麗にすごすことが
白シャツの美学ともいえる。
なので、私はいつも白シャツを着た後は
洗面所で妙な汚れがないかを確認して、
もし汚れがあったならばすぐに中性洗剤で
その部分だけもみ洗いして、
場合によっては漂白をしてから洗濯に入れている。
一見とても手間がかかるように見えるが、
逆にこれだけしていればオシャレを気にせずに
過ごすことができると思えば
全然手間はかからない部類だと私は思っている。
そんな私であるが、昨日は出張で新幹線に乗った。
連休前の新幹線は朝から座席がかなり埋まっており
駅に停まるごとに多くの人が乗り降りしていた。
とある駅に到着したとき、私の斜め前の
2人掛けの座席に20代と思しき女性二人が
スタバの容器を持ちながら座った。
本を読んでいた私の視界にふとその女性のシルエットが
映ったのだが、その人が着ていたのは
無地のベージュ色のロングワンピースであった。
最近ロングワンピースが流行っているのか
街中でも着ている方をよく目にするが、
多くの方は柄の入ったものを着ている気がする。
だが、昨日目にした女性は無地の、しかも
生成りといえるぐらいの薄い色のものであった。
別に何てことないと思われるかもしれないが、
私はこの服にとても感心してしまった。
なぜなら、これだけ全身に気を遣わなければ
ならない服はないと思ったからである。
上半身によくプレスのかかった綺麗な白シャツを
着るだけでも正直結構気を遣うことが多い。
麺をすする時には飛ばないように意識して食べるし、
乗り物で座席に座った時に、荷物を前で抱えてしまうと
妙なシワができたりするのを気にしてしまう。
上半身だけでもそれだけ気を遣うのに
ロングワンピースなら全身まで気を遣わねば
ならないだろう。
座る場所にも気を遣うだろうし、
座り方にも気を遣わないと妙なシワになってしまう。
そんなに気を遣うような服に身を包みながら
友人と出かけるというのがとてもスマートだと
私は感じた。
もちろんその服はただ単に気を遣うだけではなく
その方の雰囲気にとても合っているように見えたし
着こなし方もとてもスマートであった。
先日ようこさんが書かれたnoteを読んで
物事に手間をかけることの意味を
考えたところだった私にとって
一つの答えがなんとなく見えた気がした。
手間をかけることは美学なのである。
よく考えてみれば芸術作品とは
全て手間の結晶であり、
そこに機能性や生産性という概念はない。
極論すれば生活の中に芸術作品はなくても
私達は生きることができる。
だが、そこにかけて生み出されたものに
美が生まれるのではないだろうか。
もちろんこの世界には生産性にこだわり
機能を追求したからこそ得られる美もある。
いわゆる機能美というものである。
だが、機能美にしてもそこに至るまでには
多くの手間暇がかかるものなのだ。
メンテナンスも着こなし方も手間がかかる
服を選ぶということは
まさに自分に対して手間をかけること、
つまり芸術なのではないだろうか。
新幹線で偶然出会った女性を見て
そんなことを考えてしまった。
ちなみにその女性たちが乗ってきて
ロングワンピースの人は座席のテーブルに
フラペチーノらしき飲み物を置いたのだが、
私が下車するまで約30分ほど
それに口をつけている様子はなかった。
いくらエアコンが効いている車内でも
さすがにとけてしまっているのではないかと
老婆心ながら思ってしまったが、
私も子供の頃マックシェイクをあえて放置して
ほぼとけた状態で飲むのが好きだったのを
思い出した。
恐らく連れの人との会話に夢中だっただけなのだろうが
何だか妙な親近感を感じてしまった。
「フラペチーノとマックシェイクを一緒にすな」と
叱られてしまうかもしれないが、
私は気取らないマックシェイクのほうが好きである。
その時点で私とその女性では大きな隔たりがある気も
しなくはないが、好きなものは仕方ない。
なんだかこんな記事を書いていると
無性にマックシェイクが飲みたくなってきた。
久々にとかしてから飲むというひと手間をかけて
マックシェイクを飲むのも悪くない。
このひと手間が私にとっての美なのだ。