受け手に委ねすぎていないか?
先週の日曜日の午後、
私は息子のサッカーの試合を見ていた。
5年生、6年生の子供たちが合計10名参加しており、
私は他の親の方と一緒に観戦していた。
今回の試合会場である地域の運動公園は
観覧用の小さなベンチエリアがあるので、
そこに並んでみるような形になる。
その中に6年生の子供の親であり、
チームのコーチでもあるAさんの姿があった。
そして、そこではAさんを中心に何やら会話が
繰り広げられていたのだが、
私はその会話には一切入ることができなかった。
元々私は自分からペラペラと話すタイプではない。
なので、別に会話の中に入れなかったとしても
それほど気にならない。
だが、私はこのAさんがいるとなぜか緊張してしまい、
話に入るのがイヤになるのだ。
それはなぜか。
Aさんが子供たちに指導する際によく
「考えろや」「頭使って動け」と口にするからである。
私は昔からこのような言葉を相手に投げかける人が
とても苦手なのだ。
このようなことを言うと、
「それは相手が子供だからでしょ?」と
思われる方もいるだろう。
だが、仮に相手が子供だったとしても
このような言葉がスルリと出てくるということは
相手が大人であっても心の中で思っている可能性が
高いと私は思うのだ。
サッカーの試合を見ていると、
コーチや監督からよく投げかけられる言葉がある。
「ボールをもらいにいく動きをしろ」
「ボールを持ってる奴の考えを感じろ」
実際に試合の中ではもっとアバウトに
「顔出したれや」「感じろ」などという言葉で
指導をされることが多いのだが、
私はこの言葉を聞くたびに何だかモヤモヤしてしまう。
なぜなら、このような指導は基本的に
受け手に対して、強く求めるものだからである。
もちろん、チームプレーをする上で受け手は大事である。
いくらいいパスを出したとしても、
それを受け手が察して次のプレーにつなげなければ
決してゴールは生まれない。
それは紛れもない事実であるし、
受け手が何らかのアクションを起こす事は
とても大切なことだと理解している。
では、この能力を高めていくためには
どうすればいいのだろうか。
それは自分がパスを出す側として
どう動いてほしいかを考えてプレーすることである。
自分がパスを出す側に立っている時こそ、
本当に相手にしてほしいことを感じられる機会なのだ。
当然ながらボールを持った時点で
相手はそのボールを奪おうと動いてくるので
プレッシャーを感じるだろう。
その中でボールを持ったプレーヤーは
自分がドリブルでボールを運ぶのか、
仲間にパスを出すのか、局面を立て直すためにクリアするのか、
色んな選択肢の中から選択しなくてはならない。
そうしたときに、自分が周りにどう動いてほしいかを
練習や試合の中で自ら発信することで、
周りはそれを理解し、少しずつプレーがつながるように
なっていくだろう。
パスをつないでプレーするサッカーにおいては
これができるチームはやはり強い。
だが、これをする上において、
受け手に求めるものが強すぎるとどうだろうか。
ボールを出す人の気持ちを理解しようと意識することは
とても大切であるが、
それを読み取る能力には明確に個人差がある。
読み取りにくい人にとってはこの要求は
とても苦痛なものになるのではないだろうか。
今から15年ほど前のこと、
私は前職の仲間たちととある焼き肉屋にいた。
そこは民家のようなこじんまりした店で
隣の人の会話が聞こえるような環境だったのだが、
その時隣にいた作業服の男性がこんな話をしていた。
「R150㎜の円を書けって若手に言ったら、
驚いたことに直径150㎜の円を書きよるねん。
アイツらはホンマ何考えとるんかわからん。」
それを聞いていた同僚の方も
「それはアホや」などとガヤガヤと騒いでいたのだが、
私は何だかその会話がとても不快であった。
恐らく彼らが言う若手と同世代だからということも
一つの理由であろう。
しかし、私がその時強く思ったのは、
R150㎜という指示が半径を指すという指示を
相手がわかるように指示しなかった
自分が反省すべきだということである。
相手に期待することは何なのかを明確にして、
それを的確に伝える方法を模索することこそ、
チームプレーにおいては大切だと私はいつも考えている。
自分が的確に相手に期待することを伝えるからこそ、
自分が受け手になった時に相手が期待することを
理解できるようにもなる。
これはまさにサッカーにおいても同じだと思うのだ。
受け手に対して「考えろ」「感じろ」と指導することは
私にとってみれば昔焼き肉屋で出会った
あの話と本質的には同じなのだ。
何事も答えを差し出すだけでは
受け手は考える力が身につかない。
なので、程よく考えさせることは大事であるが、
それは決して「考えろ」というだけでは
なし得ないことなのだ。
Aさんと話をするときには私は彼が何を求めているのか
よくわからないし、
それを私が読み取れないとすれば
きっとそのことに対して彼は不満を持つだろう。
だが、Aさん自身なら受け取れるパスを
誰しもが的確に受け取れるわけではないことを
Aさんは理解していない。
そして、受け手が受け取れないことに対して、
「受け取れ」と指導をする。
それがとてもモヤモヤしてしまうのだ。
結局その日の試合は特にAさんを含め
その周りの保護者ともほとんど話すことなく終了したが、
試合の中で受け手主体の指導の言葉を投げかけられた息子は
恐らく咀嚼できていない内容が多々あっただろう。
せめて息子には自ら相手に受け取りやすい発信を
できるプレーヤーになって欲しい。
そのために指導内容の咀嚼をサポートしてやるのも
私の一つの役割なのかもしれない。
そんなことを思いながら帰路のハンドルを握る
日曜日の夕方であった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?