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純粋に味わうコツ

我が家の子供たちは平日学校が終わると
学童保育に行っている。

有難いことに私が住む町は小学校6年生まで
学童保育を受け入れてくれるので
兄妹ともに学童で見て頂いている。

息子は今年小5なので学童ではベテラン。

娘は今年入学したばかりなので新入りで
学校だけでなく学童で起こる全てのことが
まだ新鮮に感じているようである。

そんな娘にとって学童の楽しみの一つが
週に2回のおやつである。

ここの学童では週2回、駄菓子屋で買えるような
お菓子を数個詰め合わせにしたものが
皆に配られるのだが、
それを娘はとても楽しみにしている。

そんなお菓子の日であった先日
家に帰ってきた娘のランドセルを
見てみると、
とあるお菓子の空き袋と
まだ食べていない袋が1つ入っていた。

娘に聞いてみると、今日のおやつの時間で
出てきたこのお菓子がとても美味しかったので
家でも私たちに食べてみてほしかったらしく
2個入っていたうちの1つを食べて
1つを食べずに持って帰ったという。

そのお菓子とは下記の”きなこ棒”である。

結構昔から駄菓子屋にあるような気がするが
私自身このお菓子に手を出したことがなかったので
娘の提案に従って少し食べてみた。

きなこの香りとねっとりとした飴のような中身が
何だか餅を食べているような感じで
確かにとても美味しい。

娘はわらび餅や安倍川餅などきなこのついた
お菓子に目がないので
それを駄菓子で味わえるのが
とても嬉しかったのであろう。

その場で食べてもよかったのに
わざわざ持って帰ってくれた娘に
感謝を伝え、その日は過ぎた。

そして数日経ったある日、
私は買うものがあり近くのコンビニに行った。

目当てのものを手に持ってレジに並ぶと、
ちょうど数人がレジ待ちしており
駄菓子コーナーの前で立ち止まった。

ふと棚に目をやってみると
娘が先日持ち帰ってくれたきなこ棒が
そこに置かれているではないか。

1本30円ぐらいのものだったので
息子の分も含めて4本を手に取り
私はレジに向かった。

そうしてきなこ棒を持って家に帰ると
娘は喜んだが、夕食前だったので
すぐに食べるわけにはいかない。

また翌日のおやつにでもすればいい。

そう子供たちに言っておやつを入れるカゴに
私はきなこ棒を入れた。

そして、その日から数日経った先日
私はふとおやつのカゴを見る機会があった。

するとあの日に私が買ったきなこ棒が
入ったままになっていたのである。

あんなに美味しいと言っていたのに
どうしたのだろう?

そう思い娘に聞いてみると、
横で聞いていた息子がこんなことを言い出した。

「あのお菓子、家の外で食べたら美味しいんやけど
家ではあんまり魅力を感じひんねん」

その言葉を聞いた時、一瞬不思議な気がしたのだが、
よく考えてみると私達も同じようなことが
しばしば起こっていることに気が付いた。

例えば旅先から自宅用に購入したお土産などは
まさにそうであろう。

旅館などでテーブルの上に置かれていた
地元の銘菓を食べて
「コレ美味しいから買って帰ろう」と
思って買ったはいいものの、
なかなか手が伸びず賞味期限ギリギリで
駆け込み食べをしたことは過去に何度もある。

また、海外に行って現地で美味しかった料理を
家でも家族に食べさせてやろうと
調味料を買ってきて家で食べた時、
味はかなり近く再現しているはずなのに
なぜか現地で食べるほど箸が進まないことは
これまで幾度となく経験してきた。

これは一体なぜなのであろうか。

家にいるときと外にいるときで
私たちの味覚は変化してしまうのだろうか。

そもそも味覚とはその食品が
自分の体にとって安全かどうかを判別するために
体に備わった仕組みなので
本来なら家で食べようが外で食べようが
関係ないはずである。

だが、現実にはあたかも味覚が変化するかのような
事象がしばしば起こっている。

これは一体どういうことだろうか。
そう考えていると、息子がふとこんなことを言った。

「家やと他に色んな選択肢があると思うから
これよりも美味しいヤツを探してしまうけど、
外やとそれしかないから美味しく食べられるねん」

なるほど。
確かに家には他にもお菓子が置かれているし、
本当にお腹が空いたならば
おにぎりやシリアルなどを食べることもできる。

しかし、学童で出された時には
基本的にそのお菓子以外の選択肢はないので
それを食べ、味わうことに集中する。

そう言われてみれば海外で食事をしたときも
それしか選択肢がない中で味わっている。

ある意味、自分にとって比較対象がない中で
純粋に味わっている状態といえるが、
日本に帰って食べるときには
どうしても日本食と比較して食べてしまうので
あまり魅力を感じなくなってしまう。

だが、これはとてももったいないことでは
ないだろうか。

先ほども書いたように味覚とは
本来その食品単体を評価するためのもので、
決して何かを比較するための機能ではない。

単体としてはとても美味しいと感じられるのに
そこに妙な比較対象をつくることで
純粋にその味を味わえなくなっているのである。

私達は外食した際に「家で出せない味だ」と
思うことがしばしばある。

それは部分的には正しいのであろうが、
やはりそこには他に選択肢がないという
公平な味覚で評価をしているからこそ
得られる感覚なのかもしれない。

エッセイストの稲垣えみ子さんが
自宅から冷蔵庫を撤去されたという話が書かれた本を
先日ようこさんが紹介されていた。

冷蔵庫を使わない生活はとても面白いけれど、
実践できるかどうかというと
難しいだろうと少し否定的に思っていた。

だが、もしかすると冷蔵庫を使わないことで
購入した食材はその日に使い切らねばならず
食事に向き合う時に他の選択肢を消す事が
できる方法なのではないだろうか。

家に居ながらも口に入れるものの味を
純粋に比較対象なく味わえるということは
とても素晴らしいではないか。

世の中には簡単に調理できて美味しいものが
溢れている。

一見するとそれはとても幸せなことに見えるが、
その代償として私達は本当の味覚をどこかに
置き忘れてしまっているのかもしれない。

もちろん、いきなり冷蔵庫を使わない生活は
難しいであろうが、
余計なものを買わず、
可能な限り選択肢を無くしたうえで
食べるものに向き合う工夫は
いつからでもできるのではないだろうか。

お弁当は家で食べるものと中身は同じでも
外で食べると美味しく感じるように、
家でもその感覚を味わえれば
とても素敵ではないか。

次の週末にでも近くの公園で弁当を食べることを
家族に提案してみようと思う。

もちろん、おやつはきなこ棒である。

ちなみに今日の記事が連続投稿1000日の
記念であった。

まさか連続投稿をし始めた頃は
こんなに続くとは思っていなかったので
自分でも驚きの数字であるが、
これも楽しいからこそ続けられているのであろう。

そしてその楽しさの大きな要因は
私の記事を読んで下さる人がいると
思えることに他ならない。

いつもお読み頂いている方々には
感謝の気持ちしかない。

ありがとうございます。

これからもお付き合い頂けると嬉しい。


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